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稲田海素

いなだかいそ #4357

稲田海素

いなだかいそ

(一八六九-一九五六) 明治二年一一月一日、新潟県古志郡、稲田谷五郎の子として生れ、幼名を東馬といい出家して海勇と改め、海素、日達と称し、白牙院と号した。
一一歳の、父と死別し郡内の円隆寺の弟子となったが、向学の念やみがたく一五歳の上京し本間海解の下に投じ勉学、二二歳にして抜きんでられて芝二本榎円真寺に晋住(同寺二三世)した。
明治三四年(一九〇一)加藤文雅の発願による開宗六五〇年記念事業として『日蓮聖人御遺文』編纂の業が企画されるやこれに参加し、かつて小川泰堂校訂にかかる『高祖遺文録』を底本としてまず中山法華経寺宝蔵の聖人御真蹟の対照校訂を始めとして全国に散在格護されている聖人御真蹟を求めて校訂し、更に古写本と校合し、明治三七年八月同書の刊行を見るに至った。 ち縮刷『日蓮聖人御遺文』がこれで更に他門、諸山伝承の真蹟、古写本を集録し『続集』『第二続集』を刊行した。
また神保弁静発願にかかる『日蓮聖人御真蹟』には稲田海素はその編輯担当者としてに当り漸次刊行したが大正一二年(一九二三)関東大震災によって写真原版を焼失、ために既刊の第二〇輯をもって中絶の止むなきに至った。 なお、これを別の方面から継承・完成したのが立正安国会「日蓮大聖人御真蹟鑚仰会」による『日蓮大聖人御真蹟』の大集成である。
稲田海素は庾身、中背で極めて健康、八八歳に至るも眼鏡を必要とせぬほど視力も強健であった。 初め日蓮宗大学林において宗史を講じたが、これを辞し生涯を聖人の御真蹟、御書写本、先師遺墨、宗史史料を探索して足跡は日本全国にあまねく。かくて御遺文の普及と現今の「祖書学」の基礎をかためたことは特筆すべき功である。
日蓮宗全書』『日蓮宗宗学全書』等の編纂に尽力。『日蓮聖人御遺文対照録』『日蓮宗年表』等の著作物がある。
昭和三一年二月二六日遷化、八八歳。小湊誕生寺加歴七一世、谷中瑞輪寺四六世。
《『遺文辞典』歴史篇「稲田海素」の項》

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