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南岳

なんがく #970

南岳

なんがく

(五一五-五七七)
慧思(えし)の異称。
南豫州武津県(河南省汝寧府上葵県東)の人、姓は李氏。
元魏延昌四年一一月一一日に生れた。
幼少より帰楽法の情甚だ篤く、曽て夢に普賢菩薩が白象王に乗って師の頂を摩するのを感得し、それより頂上に肉髻を隆起したといわれる。
永安二年(五二九)一五歳で出家具足を受け、専ら法華を誦した。
二〇歳の『妙勝定経』を読んで感ずるところあり、常に林野に経行し、坐禅を好んだ。
のち梁の承聖三年(五五四)北齊の慧文禅師に謁して観心の法を受け、聴講参禅し昼夜精進したが、一夏安居が終って演法のため法堂に上ろうとして、慨嘆していうには「昔、仏在世の時は九旬にして証道を究満する者が多かったと聞くが、自分は虚しく法歳を閲しながら、内に愧ぢることが深い」とて、将に身を放ち壁に侍らんとするや、豁然として大悟し、法華三昧を発得した。
東魏武定六年(五四八)三四歳のとき、河南兗州(河南省滑県治)に居り、たまたま衆と論議し、比丘のために毒殺されんとし、死の瀬戸際で復活した。
北齊保元年(五五〇)、刺史が鄴都に帰るのを送り、心に密かに南に赴こうとし、衆を捨てて淮水を渡った。
同四年郢州(湖北省鍾祥県治)に行き、刺史劉懐宝のために筵を開き、再び衆のために毒殺されんとした。
同五年光州開岳寺に到り、刺史らのために『摩訶般若波羅蜜多経』をじた。
師は初めは更に南の衡山(南岳)に赴こうとしたが、兵乱にはばまれて同六年光州大蘇山に入った。
同七年城西の観邑寺で摩訶衍をじ、また師の害を受け、同八年南定州に行き刺史のために摩訶衍を講じたが、多くの論師は競って心を起し、檀越をそそのかして食を送らぬようにし、ために師は断食させられること五〇日に及んだ。
師は弟子を遣わして食を乞い、漸く生命を保った。
九年大蘇山に帰り、諸方に経を造る者を求めて比丘僧合を得、光城県齊光寺で紺紙金泥の『大品般若経』と法華経を造り、宝函にこれを収め、自ら願文一篇を述べて自分がそれまで経験した法難を記し、彌勒が出世する時、この身とこの経とが出現して広く一切を化せんことを誓った。
これが有名な『南岳大師誓願文』一巻(現存)である。
天台大師が慧思に師したのは、この大蘇滞留中の嘉元年(五六〇)であった。
師が保五年(五五四)に光州に到ってからは、遠近を俳徊し、衆のために講説すること凡そ一四年、陳の光大二年(五六八=『唐高僧伝』一七、『祖統紀』六。一説、光大元年、『景徳伝燈録』二七)初めて南岳に入り、三生行道の跡を悟った。
演は益々盛んで、ために屡々道士等の讒に遭ったが、陳の宣帝は殊礼をもって師を遇し、大禅師の称を与えた。思大和尚・思禅師などと呼ばれるのはこれに起因している。
師は南岳に住すること一〇年、道徳高邁で一世に卓絶し、六根清浄を得たといわれる。
太建九年六月二二日寂、寿六三歳。
門弟は非常に多く、中でも天台大師智顗が最も傑出した。
天台宗では慧文禅師を第一祖、慧思禅師を第二祖、天台大師を第三祖としている。
著述としては『大乗止観法門』四巻、『諸法無諍三昧法門』二巻、『隨自意三昧』一巻、『法華経安楽行義』一巻、『受菩薩戒儀』一巻、『南嶽思大師立誓願文』一巻(以上現存)、『四十二字門』二巻、『釈論玄門』一巻、『次第禅要』一巻、『三智観門』一巻等がある。
特に『立誓願文』は中国における末法思想を端的に示したものとして有名である。
はまだ『大集経』翻訳前なので仏滅一五〇〇年にして末法到来とされている。
因みに『大乗止観法門』・『無諍三昧法門』・『安楽行義』など現存するが、これは彼の著ではないと疑う人もある。
日蓮聖人章安大師撰の『天台智者大師別伝』の記事に基づき、南岳を観音の応現とされている(『本尊抄』定七一九頁)。
《『摩訶止観』一上、『続高僧伝』一七、『大唐内典録』五、『弘賛法華伝』四、『法華伝記』三、『天台九祖伝』、『景徳伝燈録』二七、『仏祖統紀』六・二三・二七・三七・五三、『遺文辞典』歴史篇「恵思(えし)」の項、『日蓮辞典』『岩波辞典』「慧思」の項

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