章安
章安
しょうあん
(五六一-六三二)灌頂。
中国臨海章安(浙江省台洲府臨海県東南)の人。
よって章安大師、章安尊者という。
姓は呉民、字は法雲。
陳の天嘉二年(五六一)生れ。
幼くして父を失い母に養われた。
七歳で章安攝静寺慧拯について出家し、二〇歳で具足戒を受けたが、慧極の寂後、天台山修禅寺に往き、天台大師に謁し天台の教観を習った。
陳の至徳元年(五八三)大師に従って金陵の光宅寺に到り、観門を研鑽して印可を受け、これより天台大師の侍者となった。
陳の禎明元年(五八七)光宅寺で大師の『法華文句』を講ずるのを聴聞し、同三年(五八九)陳が滅びたので大師に随侍して江を溯り、三宮、盧山、九向、衡山等の名勝を歴遊した。
隋の開皇一一年(五九一)晋王広が楊州総管となり天台大師を屈請するや、大師に随って州の禅衆寺に赴き、その年また侍して匡山で夏を過した。
一二年一二月、荊州玉泉寺に入り、一三年四月同寺で『法華玄義』の講を聴き、一四年四月『摩訶止観』を受講した。
一五年(五九五)再び晋王広の請を受けた大師に隨って金陵に赴き、『浄名経文疏』を製し、明年、天台山に還った。
一七年一一月、天台大師の入寂にあい、因って同門の普明と共に遺書手迹、並に『浄名経文疏』三一巻及び犀角如意、蓮華香爐を奉じて揚州に行き、これを晋王広に献じた。
一八年正月、晋王広は司馬王弘をして章安が天台山に帰るのを送らせ、二月、命じて天台大師のために千僧斎を設け、伽藍を経営せしめ、天台山寺と号し、田若干を施した。
これは天台大師の遺志に従ったものである。
この年、晋王広は再び使を遣わして天台大師の周忌斎を設けさせている。
仁寿元年(六〇一)晋王広が皇太子となるや、章安は智璪と共に山主の命を受けて賀啓を奉じ、同年一〇月、再び使して天台山寺の落成の礼を述べ、二月には皇太子は員外散騎侍郎兼通事舎人張乾成をして章安を天台山に送らせ、施物を奉じ、斎を設けて天台大師の霊龕を祭らせた。
章安は明年(六〇二)正月、智璪と共に書を送って礼を述べ、同年、皇太子の旨を承け、天台大師の『浄名疏』及び『法華玄義』を奉じて長安に入り、繕寓校勘してこれを弘闡した。
大業元年(六〇五)八月、下痢を患らうこと四〇余日、これより天台山に臥してまた使を奉じなかったが、同七年かつて晋王広であった煬帝が、親ら兵を涿鹿に進め、高麗を征せんとするに当り、勅を承けて行在所に到り煬帝に謁した。
これより貴紳相継いでその房を訪う者が多くなった。
一〇年『大般涅槃経玄義』二巻、『同経疏』三三巻を撰述。
時に随末の兵乱に遭い、菜食水斎、氷牀雪被、辛酸をなめること五年にしてその著を完成したという。
晩年には会稽の称心精舎に住して法華を講説したが、時の人々はこれを讃して「朗(陳興皇寺法朗)に跨((こ))え、基(斎法華山慧基)を籠め、雲(梁光宅寺法雲)を超((こ))え、印(斉中興寺僧印)に邁ぐ」と言った。
時に嘉祥寺吉蔵がこれを聞き、自らの講を廃し衆を散じて章安の講席に参じたといわれ、日蓮聖人遺文にもしばしば引かれるところである。
唐の貞観六年(六三二)八月七日、自ら滅せんと欲し、弟子に向って「弥勒経に説く、仏入滅の日、香煙雲の如しと。
なんぢら多く香を焼け。
吾れ将に去らんとす」と述べ、また遺誡を述べ終るや忽ち起って合掌し、弥陀の仏号を称して寂した。
年七二歳。
世に章安大師と称せられるが、後、呉越王は請うて総持尊者の号を賜わっている。
章安は智解弁才絶倫で、よく天台大師の遺教を領持し、大小部帙一〇〇余巻を集記し、もって後世に伝えた。
今日、天台大師の教文に触れることのできるのは全く師の力である。
後世、尊んで中国天台宗第五祖とする。
著述は前記の外、『観心論疏』五巻、『天台八教大意』一巻、『隋天台智者大師別伝』一巻、『国清百録』四巻(以上現存)、『仁王経私記』三巻、『仁王疏』四巻、『眞観法師伝』一巻、『智者大師十二所道場記』一巻、『南岳記』一巻(以上散佚)等がある。
諸書中、日蓮聖人が多引されるのは『涅槃経疏』『観心論疏』などで、「取捨得宣不可一向」「無慈詐親即是彼怨為彼除悪則是彼親」などは遺文を読む者の目に親しい。
《『国清百録』三、『続高僧伝』一九、『止観輔行伝弘決』一、『内証仏法相承血脈譜』、『遺文辞典』歴史篇「灌頂」の項、『日蓮辞典』「灌頂」の項》