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止観

しかん #3656

止観

しかん

止は梵語śamatha,観はvipaśyanāの訳語。
本来止と観とは別個のものであるが、二つを併称することによって、一つの用語を形成している。
また「止観」と言った場合、天台大師智顗によって講説された『摩訶止観』を指す場合もある(日蓮聖人の用例)。
更にまた智顗が主張した、漸次・不定・円頓の三種止観を略称するものと解される場合もある。
止観天台大師智顗によって、最も重んじられたので、それは智顗によって提唱されたものの如く思考されるが、既にこの止観については阿含経典に諸説がある。 しかもこれらの叙述は端的に止観の意味を伝えているものとして注目される。 ち『長阿含経』巻九に、「云何が二の修法なる、謂わく止と観となり」といい、また『増一阿含経』巻一一には、「阿練比丘は常に二法を修行すべし。 云何が二法なるや、所謂止と観となり」と説かれている。
『成実論』巻一五には止観品があり、次の如く叙述される。
「問うて云く。 は処々の経中に諸比丘に告ぐ。 若しくは阿練若処に在るも、若しくは樹下にあるも、若しくは舎にあるも、応に二法を念ずべし。 所謂止と観となり。 若し一切の禅定等の法皆悉く応に念ずべきに、何が故に但だ止観のみを説くや。
答えて曰く。 止は定に名づけ、観は慧に名づく。 一切法の修より生ずるものは、此の二を皆摂す。 及び散心に在る聞思等の慧も亦此の中に摂す。 此の二を以って能く道法を弁ず。 所以者何(ゆえいかんとなれば)。
止は能く結を遮し、観は能く断滅す。
止は草を捉うるが如く、観は鎌にて刈るが如し。
止は地を掃うが如く、観は糞を除くが如し。
止は垢を掃うが如く、観は水にて洗うが如し。
止は水に浸すが如く、観は火に熟するが如し。
止は癰に附するが如く、観は刀にて決するが如し。
止は脈を起すが如く、観は血を刺すが如し。
止は制して心を調え、観は没する心を起す。
止は釜に灑ぐが如く、観は火に炙るが如し。
止は繩を牽ぐが如く、観は剗を用うるが如く。
止は鑷にて鑷刺するが如く、観は剪刀にて髪を剪るが如し。
止は器鉀の如く、観は兵杖の如く。
止は平立の如く、観は箭を発するが如し。
止は膩を服するが如く、観は薬を投ずるが如し。
止は泥を調するが如く、観はするが如く。
止は金を調するが如く、観は器を造るが如く。
又世衆生は皆二辺に堕す。 若しくは苦、若しくは楽なり。 止は能く楽を捨し、観は能く苦を離る。 又七浄の中の浄心浄を止と名づけ、余の五を観と名づく。 (略)七覚分の中の三覚分を止と名づけ、三覚分を観と名づけ、念は則ち倶に随う。 八道分の中、三分をと名づけ、二分を止と名づけ三分を観と名づく。 は亦止に属す。 又止は能く貪を断じ、観は無明を除く」
とある。 これによって、止と観とのそれぞれがおよそ判明するが、止とは境であり、観とは智であることが一般的な止と観の意味である。
《『遺文辞典』教学篇「止観」・歴史篇「止観」の項、『広説仏教語大辞典』『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』「止観」の項》

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