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教観

きょうかん #2332

教観

きょうかん

教相観心との併称。
教相とは仏一代の所説の教法の意味を探求して仏の意のあるところを知り、また教法の形式・順序・内容を分類・整理して優劣を簡別し、もって宗旨を樹立する理論的研究をいい、観心とは、教相によって示された経の奥底の真理を思惟観察して己心のものとするための実践修行をいう。
天台宗においては『法華玄義』に説かれる三種教相・五時八教等の教判は教であり、また三大部のうち、法華経の題目の深義を説いた『法華玄義』、法華経の一々文々の意味を解釈した『法華文句』は主として教を説き、この二書によって詮顕された法華経の根本真理たる一念三千を己心に成就するための方法を説いた『摩訶止観』は主として観を説く。
更に立入れば『法華玄義』の中でも名・体・宗・用・教の五重玄義を説く中の宗玄義は一乗の因果を説くところであるから、観を説くものであり、『法華文句』は一々文々を因縁・約教・本迹・観心の四種に解釈するが、その中の因縁・約教・本迹の三釈は教であるが、最後の観心釈は観であり、『摩訶止観』の一〇章のうちの第六方便章までは妙解門であるから、第七正修章は十境十乗の観法を説くから、まさしく観である(第八章以下は不説)。
教観の関係については『法華文句』一上にも「(教のみにて終れば)日夜に他宝を数ふるに自ら半銭の分なし、但だ己心の高広を観ずれば無窮の聖応を扣き、機成じて感を致し、己利を逮得す」とて、観に進まない教は徒らに知識を増すのみであって、無意味であるとし、果ては「誦文の法師」として排斥するが、さりとて教に基づかぬ観も「暗證の禅師」(『摩訶止観』五上)として否定される。
法華文句』八に「教観相循じて共に其の妙を顕はす。
教観若し偏せば二倶に力無し」、『法華玄義』八下に「を聞きて而も観じ、を観じて而も聞く。 教観相資けて則ち通入して門を成ず」というように、教観相資こそが天台宗風である。
によって観を立て、観によってを有意義とする教観双立・教観一致・教観不二のところに読経の意義があり、立行の伝統があることは、日常の読書一般に照らしても明らかなところである。
しかるに後世、日本中古天台では、止観は天台大師の己心中所行の法門を説いたものであり、法華の言外の深義が示されているからとて、止観勝法華を立て、更には禅宗は教外別伝の仏心を伝えるとして禅勝止観と断ずるに至る。
『立正観鈔』にその破斥が見えるが、要は、これらは天台宗の教観双美の伝統を破壊して、一概に胸臆の観心らしい説にのみたよろうとするところから生れた異端の説である。
日蓮聖人においては『開目抄』の五重相対、『本尊抄』の四種三段等の教判、および妙法蓮華経の五字に関する種々の説明等は教であり、妙法五字受持は観である。 受持三業があり、身には法華経を色読し、口には南無妙法蓮華経の七字を唱え、意に信心する。
これを天台宗の観心と比較すると、止観の三業は主として道場内での三業であり、身の開遮は坐禅か行道が、口の説黙は念仏・読経するか否か、意の止観は運想であって、本宗の身の色読の社会的実践とは異なる。
また身の開遮・口の説黙は四種三昧のとき加味された有相行であって、元来は意の止観たる十境十乗の無相行を本意とするに対して、本宗は口の唱題たる有相行を主とする。
また止観一心三観の智慧をもって円融三諦の境を照らす行であるが、本宗の意業は以信代慧して信心為本の宗教である。
これを末代観心とする。
五重相対の第五に教観相対がある。 その文は「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(定五三九頁)で、本迹相対して本門の教を取り、次に教観相対して本門の観心たる事の一念三千を取り、これは本門寿量品の文底に沈められたりと示すところであるから、これを底上相対ともいう。 しかしこれは寿量品の観心釈であって、観心そのものではない。
観心たる実践は『観心本尊抄』の特に自然譲与(→じねんじょうよ)段を待たねばならない。 そこに初めて妙法五字の受持による釈尊の因行果徳の二法の自然譲与が語られるからである。
天台宗の教観と本宗の教観との相違は、天台宗の場合は教によって詮顕された真理としての十界互具・百界千如・一念三千を己心に次第に成就して行くところに面目があるが、本宗の場合は、一念三千という真理を教の所含とし、教を信仰受持することによって目的を達成しようとするところにある。
《『遺文辞典』教学篇「教観」の項、『日蓮辞典』「教観」の項》

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