三業
三業
さんごう
梵語trīṇi karmāniの訳で業に三種の別があることをいう。
(1)身業(kāya-karman)・口業(vāk-k)・意業(manas-k)。
身・口・意の所作をいう。
(2)福業・非福業・不動業。
福業は欲界の善業、非福業は欲界の悪業、不動業は色界・無色界に属する禅定をいう。
(3)曲業・穢業・濁業。
曲業は諂に依る身・口・意三業、穢業は瞋に依る身・口・意三業、濁業は貪に依る身・口・意三業。
(4)有漏業・無漏業・非漏非無漏業。
有漏業は分段生死の果報を感ずるもので凡夫の所作、無漏業は方便有余土の果報を感ずるもので二乗の所作、非漏非無漏業は実報土の果報を感ずるもので菩薩の所作である。
(5)善業・悪業・無記業。
善業は道理に順った所作、悪業は道理に順わない所作、無記業は仏が記して善とも悪ともしない中庸の所作をいう。
(6)順現受業・順生受業・順後受業。
順現受業は現在の生に業を作り現在の生に果報を受け、順生受業は現在の生に業を作り次の生に果報を受け、順後受業は現在の生に業を作り二生以後に果報を受く。
(7)順楽受業・順苦受業・順不苦不楽受業。
順楽受業とは欲界より色界の第三禅天にいたるまでの所作の善業、順苦受業は欲界の一切の不善業、順不苦不楽受業は第三禅天より有頂天にいたるまでの一切の所作の善業をいう。
順楽受業は楽受を感じ順不苦不楽受業は唯意識の捨受を感ずる。
日蓮教学において最も重要な意味をもつのは(1)である。
身業は身の所作、口業は口の所作、意業は意(こころ)に念(おも)うことをいう。
このうち口業を語業とも称する。
『大毘婆沙論』第一一三には「具に三縁に由りて三業を建立す。
一に自性の故に語業を建立し、二に所依の故に身業を建立し、三に等起の故に意業を建立す。
復た有説は三縁に由るが故に三業を建立す。
(略)自処に依るが故に語業を建立し、他処に依るが故に身業を建立し、相応処に依るが故に意業を建立す」とある。
唯識においては三業に仮実を分別し、身業・語業に仮実の二種、意業には唯実の一種を論じる。
身業の仮法は取捨屈伸の身形の表色で色処の中に摂し、語業の仮法は音声の屈曲で声処に摂す。
小乗はこの仮法を実の業体と立てるのである。
身業・語業・意業の実法は意識相応の思の心所で、審慮思・決定思・動発勝思の三種がある。
審慮思は身・語を発す時の審慮、決定思は決定の心を起して事をなさんとする思、動発勝思は身・語を発して事をなす思である。
このうち第一・二思を意業の体、第三思を身業・語業の体とする。
日蓮聖人は『法蓮鈔』に謗法者の罪禍を明かす文中、「三業相応して一中劫が間、釈迦仏を罵詈打杖し嫉妬」(定九三六頁)した提婆達多の毀仏罪を取上げ、これを法華経誹謗や末代の法華経の行者を怨む者の罪と比較し、謗法罪がいかに重科であるかを説示されている。
また釈尊在世に「一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて、頭を低て他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ、飢て食を思ふがごとく」(定九四一頁)三業にわたって仏を供養することよりも、末法の法華経の行者を讃歎し供養する功徳の方がはるかに勝れているとし、経釈をあげて法華経信仰の福徳を論証されている。
日蓮聖人自身、教義の建立に三業を論じられる例はないが、聖人の信行を見る時、その行相に三業の妙行を指摘しうる。
これを三業受持あるいは三業相応・三業円満の受持という。
相応・円満とは三業が相い照応し、互いに具すことをいう。
身業受持とは身に妙法五字を持つことで、不惜身命の決意をもって呵責謗法の折伏逆化に邁進することをいう。
妙法五字の受持とは南無妙法蓮華経の五字七字をいい唱題にほかならない。
『観心本尊抄』ではこれを「事行の南無妙法蓮華経の五字」(定七一九頁)と表記されている。
「事行南無妙法蓮華経五字」とは唱題が単に口に唱えるものではなく、現実の歴史社会に事実として活現するものであることを意味している。
五字が五字として活きるのは釈尊世界に生きる行者の主体的な法華経実践にまつほかはない。
これが法華経の色読である。
即ち五字の受持とは色読としての唱題、唱題の色読にほかならない。
『富木入道殿御返事』に本門の一念三千を述べるに当たり「大難又色まさる」(定一五二二頁)とし、ここに「事」の概念を認められ、『撰時抄』ではいわゆる「三度の高名」を「法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり」(定一〇五四頁)と一念三千に現実的・実践的概念を示されている。
妙法五字の受持(唱題)とは具体的・現実的・能動的な法華経行為にほかならないといえよう。
『種種御振舞御書』の「今日蓮は末法に生て妙法蓮華経の五字を弘てかかるせめにあへり」(定九七一頁)「日蓮は南無妙法蓮華経と唱る故に、二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を蒙り」(定九八六頁)や『松野殿御返事』の「南無妙法蓮華経と我口にも唱へ候故に罵られ、打はられ、流され、命に及びしかども、勧め申せば法華経の行者ならずや」(定一四四二頁)などの文はこのことを如実に表明している。
口業受持は口に題目を唱えることである。
唱題の実修は既に聖人以前から行われていた。
それは浄土教の称名念仏と共に信仰の行為を直截化することによって法華経信仰がより一般化・庶民化していった平安から鎌倉時代にかけての信仰形態の傾向であった。
しかし当時の唱題は教理上の理論的裏づけのない利益追求の信仰であった。
『撰時抄』に「欽明より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱よと他人をすすめ、我と唱たる智人なし」(定一〇四八頁)と示されているように、聖人の唱題はそれらの唱題とは本質的に異なるものである。
聖人の唱題とは、五字の受持という一念三千の教理論上に構築された未聞の法門であるゆえに聖人始唱、閻浮未曾有の唱題といえる。
意業受持とは意(こころ)に妙法五字を持つことで法華経の信心をいう。
法華経の信心とは法華経所有の信心である。
法華経への随順は法華経に活きる弘経者の宗教的主体性を意味している。
法華経への自己否定は法華経における自己の肯定である。
『開目抄』に『涅槃経』の貧女の譬をあげて法華経の信心を説諭し、「我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし」(定六〇五頁)と述べ、「日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。
後生には大楽をうくべければ大に悦ばし」(定六〇九頁)と説示されたのは、このような法華経への全身全霊の投入にこそ法華経の信心の意味があり、そこに安心立命が約束されることを教諭されたものと思われるのである。
以上のように、聖人の三業受持は意に信を決定して妙法五字を身持・口持するもので、身業受持とは身持題目・身唱題目の色読、口業受持とは口持題目・身唱題目の唱題、意業受持とは意持題目・信唱題目をいい、これの一如円満の当処に題目受持の意味があるのである。『本尊問答鈔』に「三業相応して最第一と読る法華経の行者は四百余年が間一人もなし」(定一五八○頁)と述べられているように「三業相応して最第一と読」むことにこそ題目受持の本質的な意味があるのである。
聖人滅後は諸師によって行法論が取上げられ、三業の行相においても傍正の論が展開された。
これらは三業に正と傍を分別し成仏の正因を何に求めるかを追求したものである。
唱題重視は口業正意、信心重視は意業正意、色読重視は身業正意にそれぞれ偏りやすい傾向を示している。
例えば行学院日朝は唱題正因・口業正意を立てるゆえに、唱題に信を論じながらも観念的傾向におちいり、聖人の唱題の本質にある社会性、能動性を見失う結果を招いている。
日朝のごとく唱題を口業とする諸師に日耀・日辰らがある。
また禅智日好は唱題を意業としている。
これら先師に共通してみられるのは三業受持がややもすると教理論的に取扱われて聖意が正しく継承されなかったと思われる点である。
これは聖人滅後の教学が本覚思想の思潮のなかで展開され、観心主義的傾向に陥っていったことがその大きな原因であったと考えられる。
《高木豊『日蓮』、『遺文辞典』教学篇「三業」の項、『日蓮辞典』『広説仏教語大辞典』『岩波仏教辞典』「三業」の項》
(庵谷行亨)