三種教相
三種教相
さんしゅきょうそう
天台大師智顗が釈尊御一代の聖教を爾前経と法華経とに分別し、法華経の勝れている法門を三種数えあげたものである。
詳しくは天台大師の『法華玄義』に説かれている。
まず「三種」とは「教相を三と為す」(一巻上)とあって、一には根性の融不融の相、二には化道の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相である。
そして「教相」とは「教とは聖人下(しも)に被(こうむ)らしむるの言(ことば)也。
相とは同異を分別する也」(一巻上)と規定され、釈尊の説かれた教えは八万法蔵というように多くあって、その中には精粗、純雑、浅深などの種々の相違があることから、その同異を分別することだというのである。
しかもその教相の必要性を天台大師は強調されているのであって「若し余経を弘むるには教相を明かさざれども、義において傷つくること無し。
若し法華を弘むるには教を明かさざれば文義闕くること有り」(一〇巻上)というのである。
つまり諸経と法華経の法門の違い目を明らかにすることが大切であって、そのことによって釈尊の御精神を正しく把握できるという立場である。
さて第一の教相は法華経信解品の説相から立てられた法門である。
即ち釈尊の立場から見られて、衆生の機根が釈尊の真実の教えを正しく受け入れられるようになっているかどうかということを問題にするのである。
融と言えば素直に受け入れられる状態に達していることで、不融といえばその逆である。
そこで余経は不融通の機根に対する釈尊の随他意の説法で、法華経は融通の機根に対する一乗真実の随自意の教説と見るのである。
これが法華経の勝れている第一の法門である。
また、ここを根拠として天台大師は五時八教の判教を論ぜられるのである。
第二の教相は、法華経化城喩品の説相から立てられた法門である。
釈尊の御化道には始終があって、余経にはこの始終を明かさないが、法華経にはそれを明かす。
即ち余経は時に応じ、機に応じて設けられた教えであるが、法華経には下種益、熟益、脱益が説かれ、釈尊の御化道には始終が存するのである。
かつて三千塵点劫の昔、大通智勝仏の法華経を聴聞することによって、成仏得脱の種が下され(始)、その中間において調熟がなされて、その結果今の脱益(終)があるというのが、化城喩品の説相である。
第三の教相は法華経寿量品の説相によって立てられた法門である。
余経では師の釈尊は菩提樹のもとで悟を開かれた始成正覚の仏であって、その弟子は一時的な関係にすぎず、歴史性の上から超えることを示さなかった。
しかし寿量品では、釈尊の寿命が久遠であることを開顕することによって、本眷属たる弟子も久遠であることが示され、師弟ともに久遠の関係に立つことが明かされた。
そして久遠本仏を能統一者として、三世十方の諸仏菩薩等は分身あるいは弟子として位置づけられるのである。
以上のことから、これらの三種の法門は、諸経と法華経とを比較して、法華経の超勝性を了解せしめんとするものであることが分かる。
第一第二は迹門、第三は本門の説相であることは自明であるが、日蓮聖人は第一第二は天台、伝教の立場であり、今末法の日蓮は自ら「第三の法門」であることを表明し、本門法華を中心とする信仰の樹立をはかり、教学の根幹が寿量品にあることを明示されている。
即ち『富木入道殿御返事』には「法華経と爾前とを引き向けて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節の事三つの様有り、日蓮が法門は第三の法門也。
世間に粗(ほぼ)夢の如く一二をば申せども、第三をば申さず候。
第三の法門は天台、妙楽、伝教も粗これを示せども未だ事了へず。
所詮末法の今に譲り与へし也」(定一五八九-九〇頁)と述べられている。
《『遺文辞典』教学篇「三種の教相」の項、『日蓮辞典』『天台学辞典』『岩波仏教辞典』「三種教相」の項》