法華玄義
法華玄義
ほっけげんぎ
一〇巻、あるいは二〇巻本。
『正蔵』三三巻所収。
天台大師智顗が随の開皇一三年(五九三)に講説したものであって、『妙法蓮華経玄義』『法華経玄義』または単に『妙玄』ともいわれる。
本書は妙法蓮華経の玄旨を詳説したもので、天台三大部または法華三大部といわれるものの一。
他の『摩訶止観』、『法華文句』に対し智顗の教理論の基体となるところを説くものとして古来より重視せられている。
本書の講説の年次については佐藤哲英の『天台大師の研究』において明らかであるが、本書もまた智顗の他の著述、例えば『摩訶止観』、『法華文句』などのごとく智顗が口述したものを、章安灌頂(しょうあん かんじょう・この項以下「章安」と記す)が記述し、それが幾度か整理記述せられ現存の如き内容となった。
即ち『法華玄義』は随開皇一三年(五九三)、智顗が五六歳の夏、荊州玉泉寺に開講されたものであるが、その際、章安によってその講説が聴記されて聴記本が作成された。(佐藤哲英『天台大師の研究』は50年以上前の研究なので、それ以降の研究も確認する必要あり)
この聴記本が開皇一七年秋までに章安によって整理せられ、その後その整理本が智顗の寂(五九七)後、仁寿二年(六〇二)に至る間に同じく灌頂によって修治せられ、完成せしめられたという。
従って本書の成立過程には聴記本、整理本、修治本の三段階があって、これが完成に至る迄には最長で一〇ヵ年が費やされたという。
智顗は各種の経題を解釈するのに名・体・宗・用・教という、五章または五重玄と呼ばれるものを設定しているが、本書においては、(1)釈名、(2)顕体、(3)明宗、(4)論用、(5)判教相の五章を設ける。
そしてこの五章を解釈するのに、通別ありとし、通に七番共解、別に五重各説をたてている。
七番共解というのは、(1)標章、(2)引證、(3)生起、(4)開合、(5)料簡、(6)観心、(7)会異であるが、ここに五重玄義の概略を述べ、次いで五重玄義を別釈する。
五重各説の第一釈名章においては、妙法蓮華経の五字について解釈し、妙法とは法、蓮華とは譬、経とは通名であるとし、ことさらに妙法の二字について力説し、まず法は十界三千の諸法であるとし、これを心・仏・衆生の三法に概括し、この三法は無差であり、十界互具百界千如であれば、一即一切であることになるから、そこに一実相が顕れる。
その一実相はそのまま諸法であってみれば、妙法の体は十界十如権実の法であるとする。
次いで妙を解釈して、通と別との二釈を設けている。
そして通釈に相待妙と絶待妙をとき、もって法華の独勝と開会とを叙述している。
そして別釈において本迹二門に各一〇種の妙義があるとする。
迹門の一〇妙とは、(1)境妙、(2)智妙、(3)行妙、(4)位妙、(5)三法妙、(6)感応妙、(7)神通妙、(8)説法妙、(9)眷属妙、(10)利益妙の一〇種をいう。
これによっていわゆる爾前諸経の十麁に対して、法華所説の境・智等がことごとく絶妙なることを説いている。
次いで本門の十妙とは、(1)本因妙、(2)本果妙、(3)本国土妙、(4)本感応妙、(5)本神通妙、(6)本説法妙、(7)本眷属妙、(8)本涅槃妙、(9)本寿命妙、(10)本利益妙をいうが、ここに迹門の十麁に対して久遠本佛の因果等がすべて絶妙なることを詳説している。
次いで蓮華の二字を詳説する。
ここにおいて法蓮華と喩蓮華とを説き、更に蓮華に三重の特相があるとし、これを本迹二門に配して、それぞれ三重の要義を喩顕している。
更に経の一字については無翻・有翻の説を和融し、六塵経体の説をのべている。
しかして観心を説いて経を明かし釈名章を終っている。
第二弁体章においては諸法実相をもって本経の経体とし、第三明宗章においては一仏乗の因果を以って経宗とし、第四論用章では断疑生信、増道損生をもって本経の力用とし、第五教相章では南三北七の異解を出してこれを評破し、次いで自家の説を出し、法華経を超八醍醐、純円独妙の教なりとしている。
更に巻末に章安の雑録がそえられている。
既述の如く、本書に関して詳細な検討をなした佐藤哲英の所論があるが、その研究によれば、智顗が本書になした五重玄の名目は、既に梁代の『涅槃経集解』や『敍御講波若義』に認められることであるという。
更に本書には灌頂の私見が多分に叙述されるが、その際灌頂は『法華玄論』の主張を有人説として批判的に取り入れているといわれる。
例えば本書における蓮華の釈は、吉蔵(五四九-六二三)の一六義を批判しているだけでなく『玄論』の文を有力な参考資料として「旧解を引く」の一段を構成している。
そればかりか、「経論を出す」の一段において、『法華論』の一七名を列ね、蓮華の出水と華開との両義をのべ、『大集経』の文を引いているが、これはそのまま吉蔵の『法華玄論』(『正蔵』三四巻三七七頁)に見られるもので、『玄論』を参照したものと認められると主張している。
智顗と吉蔵との関係は従来親交関係があったと認められるが、佐藤哲英によれば吉蔵は『続高僧伝』巻一一によると、隋が天下を統一した頃(五八九)に会稽に移って嘉祥寺に止宿し、開皇の末年(六〇〇)煬帝に召されて揚州の慧日道場に移ったとあるので、嘉祥寺の滞在期間は、およそ吉蔵が四一歳から五二歳頃までの一二年間であったとみられ、その際、会稽に近い天台山にあった智顗と関係があったと認められるとし、『国清百録』には智顗に送った吉蔵の書状四通が収められ、また特に開皇一七年八月二一日の日付をもつ「吉蔵法師請講法華経疏」は、禅衆一〇〇余僧と共に法華一部の講説を懇請したものであるから、吉蔵がこの頃、法華経に対し深い関心をもっていたことが知られるという。
『法華玄論』は会稽の嘉祥寺で作られたものと思われるが、その著作年は吉蔵が智顗と会う以前の作ともいえる。
しかしながら智顗と吉蔵とがいずれにしても相互に関係しあっているとすれば、既に智顗が吉蔵の『法華玄論』を手にした上で『法華玄義』を開講したことも考えられるが、吉蔵が『法華玄論』を著したのは、少なくとも開皇一七年以後、即ち法華一部の講説を懇請してより後のことと思われるので、開皇一三年に開講した『法華玄義』には未だ『法華玄論』の所説は反映されていなかったはずであると考えるとする。
このように智顗と吉蔵との相互関係を思考するときに、いまいう如くであるとすれば『法華玄義』が開講されてより以後に『法華玄論』の作成があったということになるが、そうすれば『法華玄義』に引用される『玄論』は智顗が引用したものではなく灌頂が整理を述する際に参照したものとみなくてはならないということになるわけである。
かくして佐藤は「法華玄義の蓮華釈をみると、法華玄論が有力な参照文献とされているが、その参照は智顗に帰せられるものではなく、ひとえに灌頂の玄義修治の際に玄論を座右に置いて参照したものと認めざるを得ない。しかしながら灌頂は吉蔵の玄論を無批判に採り入れたのではなく、巧みにこれを自家薬籠中のものとしてその蓮華釈を構成しているのである」(『天台大師の研究』三二一頁)と結論づけている。
なおまた本書巻頭には、三つの序文があることは本書をひもとくときに知られることであるが、「法華私記縁起」「序王」」「私序王」とあるうちの第一と第三とは共に灌頂によって記述されたものである。
しかして「法華私記縁起」は、本書と『法華文句』とにかかわる序文であるところから、本来『玄義』『文句』の両書は一具のものとしてあった如くに考えられる。
この本来の立場からすれば、本書と『法華文句』とは、いわゆる教の部門の原典であり、『摩訶止観』が観の部門の原典ということがいえよう。
しかしながら『文句』と本書とでは、その意図が異なり、本書においては天台教学の種々相を自己の立場において整理し、これを体系的に組織化せんとしようとした意図がくみとられ、後世の天台学系の存続に大きく寄与していることが認められる。
けれども、その組織化において近時、例えば従来その主要教理論として考えられてきた五時八教判などが、既に智顗の教学に形成されていたのか否かが論ぜられる如く、いわゆる天台教学の骨子として伝えられているものが、既に智顗の教学に台頭していたものか否かが問われ、智顗が意図していた天台教学を再考する必要にせまられている
この意味で本書自体多くの問題をかかえている。
荊渓湛然(七一一-七八二)は本書を注釈して、『法華玄義釈籤』二〇巻を著しているが、この末注書も多く存在する。
なお本書はわが国に鑑真によって天平勝宝六年に伝えられている。
日蓮聖人は教学体系化の論理的依文として智顗の他の講述書と共に本書を頻繁に引用されている。
とくに本書を始め『法華文句』『摩訶止観』の三大部は最も根本的な依拠である。
智顗は主に迹門に立脚して教相を立てた。
『法華玄義』は迹門の実相を基本とした法華経の論説書とみなすことができる。
これに対し聖人は本門に立脚して釈尊とその教えを把握したため、天台教学に立脚しながらも智顗の釈義とは異質なものとなっている。
聖人は『観心本尊抄』に「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(定七一七頁)、『曾谷入道殿許御書』に「妙法蓮華経之五字名体宗用教の五重玄也」(定九〇二頁)と述べて五重玄義は五字であるとされた。
これは智顗が『法華玄義』に縦横に説いた五字の哲理を本門教学のなかに包含し、信心為本の法華仏教を開陳されたものである。
《『遺文辞典』歴史篇「法華玄義」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「法華玄義」の項》
(日比宣正)