法華玄義釈籤
法華玄義釈籤
ほっけげんぎしゃくせん
二〇巻または一〇巻本。
中国天台第六祖荊渓湛然(七一一-七八二)の著述。
『正蔵』三三巻所収。
天台大師智顗が著した『法華玄義』の註釈書。
『妙法蓮華経玄義釋籤』『天台法華玄釈籤』『玄義釋籤』または『玄籤』とも呼ぶ。
本書が何故『釋籤』と名づけられたかは本書の巻頭に、湛然自身がおよそ次の如くに記述している。
即ち湛然が台嶺にあって、学徒に『法華玄義』の講義をした。そのとき学徒の質問に答えたものを籤下に記録した。これを更に湛然は毘陵において整理記述したとある。
このことから本書が『釋籤』と呼ばれるのは、籤下に記録された『法華玄義』の解釈を基体とするからであることが知られる。
では湛然は台嶺でいつごろ『法華玄義』を講述したか
日本の癡空(一七八〇-一八六二)は『講義』の中で湛然の「昔於台嶺」の文を解釈して、普門の『釈籤縁起序』にいう毘壇より国清に至るのときとしている。
このことは湛然が故郷である毘陵から道を求めて国清寺に至る間であると思われ、そして湛然が国清寺にあったのは、恐らくは天宝年間(七四二-七五五)のことではなかったかと思われる。
この点を立証する具体的な資料はないが、次のような諸点から、かくの如く推測することが可能である。
まず湛然が故郷である毘陵に滞在しているのは、およそ乾元から上元年間(七五八-七六二)にかけてであるといえるが、その後に湛然は広徳二年(七六四)に佛隴にいたことが『維摩経略疏』の序文によって明らかである。
もしも普門がいう毘壇から国清に至るとする時期をこの年代に考えるとすると、湛然は広徳二年以後に再び故郷へ帰っていることを湛然の自序から論じなくてはならない。
しかして、それをその自序に考えることが出来るのであろうか。
しかしながら湛然が広徳二年に国清寺で『玄義』の講義をし、その質問を記して、それをもって故郷へ帰って整理をなし、完成せしめたとするならば、広徳二年を去ること数年後に『玄籤』は完成したであろう。
しかし普門は『釈籤縁起序』を広徳二年に著している。
従って普門がいう毘壇より国清に至る間とは、乾元から広徳にかけてでないことは確かである。
それならば、その普門のいう時期をいつごろに考えたらよいのであろうか
湛然の自序にある台嶺から毘陵に至るとする足跡と、普門の序にいう毘壇から国清に至る足跡を考え合せて、湛然は故郷の毘陵から、一七-八歳頃に道を求めて旅をし、その修行の結果、国清寺において『法華玄義』を講ずるまでになった。
そして、そのとき学徒の質問に答えたものを記録し、その後乾元から上元年間にかけて故郷へ帰ったとき、それを整理して、『法華玄義釈籤』として完成せしめたとするのが適当と思える。
このように考えなくては、湛然の自序と普門の序とを関係せしめることは出来ない。
湛然は台嶺において学徒の問に答えた記録を、郷里毘陵で整理・記述しているが、その際に彼は天宝一四年に私記した『止観輔行』を盛んに引用し、その回数は一五〇回にも及んでいる。
この点から本書を叙述するのに湛然は『止観輔行』を重視し、それを参照しつつ『玄義』の註釈をなしたといえる。
しかして本書の完全な成立年次は、普門の『釈籤縁起序』によって広徳二年(七六四)七月であったことがあきらかである。
即ち『法華玄籤』は『止観輔行』と同じく、天宝年間にそれを叙述するための準備期間があるが、湛然はまず、天宝一四年に『止観輔行』を私記し、その後、湛然はこの『止観輔行』を参照しつつ『法華玄義釈籤』を整理・記述した。
そしてその後、湛然は宝応元年(七六二)に『止観輔行』を重勘し、広徳二年(七六四)に『法華玄籤』を成立せしめた。
その翌年の七六五年に『止観輔行』を完成せしめた。
『止観輔行』は『玄籤』の成立よりも一ヵ年遅れている点をみると、湛然が『止観輔行』に『玄籤』を引用したのは、宝応年間の重勘のときではなく、広徳二年『法華玄籤』が成立してから以降のこととも考えられる。
『法華玄籤』と『止観輔行』はこのように前後しながら成立している。
即ち湛然は『止観輔行』を『法華玄籤』作成以前に一応成立せしめたが『法華玄籤』の完成以後に、その完全成立をせしめている。
従って、『法華玄籤』は『止観輔行』が一応成立してから、完全な成立をみるに至る中間期にその叙述があることになる。
既に述べた如く、本書巻頭の湛然の自序には「昔於台嶺隨諸問者籤下所録」と説かれている。
これは湛然が『法華玄義』を講じ、その講義に対する種々の質疑に湛然が答えたことを伝えるものであるが、このように『玄義』に対する質問、答釈が行われたのは、およそ天宝年間のことと考えられた。
しかしながら、この年代には未だ湛然の師玄朗は健在(天宝一三年=七五四=に玄朗は示寂す。従って天宝の末期迄生存した)であった。
そして玄朗は天宝年間に初めて『止観』の講義をしたという、湛然の門下、梁粛の『天台止観統例』の記述がある。
更に玄朗門下の神迥の『天台法華疏序』には、玄朗が『法華疏』の文義の通じ難い点を天宝七年(七四八)に修治したと伝えられている。
これらの事実から考えるとき、湛然の師玄朗は天宝年間に盛んに『止観』『文句』を講義し、研究していたことが考えられ、玄朗が当時『法華玄義』を講釈していたことも想像することが可能である。
そして、もしも玄朗が当時、『法華玄義』を講じていたとするならば、諸の問者に随って答えたのは玄朗であり、その答えを記録したのが湛然であったということも考えられるであろう。
しかしながら玄朗は『宋高僧伝』巻二六によると、開元一六年(七二八)、婺州刺史王正容(または上客)の請に応じて暫く城下にいたが、ついで疾をもって辞して山に還り、爾来人に誨えて倦まず、頗る講学に努めたとあるので、玄朗は七二八年以降、左渓山にこもっていたと考えられる。
従って台嶺におてい『法華玄義』を講ずることはなかったと思われる。
本書から別行され一書として伝えられているものに『十不二門』があるが、迹門十妙と本門十妙の中間にとかれたもので、古来より重視せられている。
これは従来、湛然の補釈といわれているが、この他に湛然が補釈として、独自の見解を表明したものに、本書巻二の部教與奪、超八醍醐、巻二〇の五時證據などがあげられているが、本書において、より重視すべきことは、湛然が天台智顗の教学を解釈するのに、ただ単に祖意を忠実に解釈するということではなく、湛然自身が主体性をもって、自己の理論を展開せしめている点である。
例えば『法華玄義釈籤』には、およそ四ヵ所に「相入」の用語を出して、いわゆる華厳の教理論に基づきつつ、天台智顗教学を解釈したことが考えられる。
これはただ本書においてのみではなく、他の三大部注書にもみられることである。
この点については今後において、更に検討さるべきことであろう。
本書の注書には『法華玄義讀教記』七巻、宋法照撰。
『同補註』三巻、従義撰。
『法華経玄義備検』四巻、有厳撰。
『同證釈』智銓撰。
『法華玄義釈籤要決』道邃撰。
『法華玄義私記』證真撰。
『法華玄籤義断』戒順撰。
『法華玄籤講義』癡空撰等がある。
日蓮聖人は、湛然の功績は智顗滅後の諸宗の邪見を明らかにし、天台の正義を復興したことにあるとし、湛然の著書のなかでも『法華玄義釈籤』『法華文句記』『摩訶止観輔行伝弘決』を「三十巻の末文」(『報恩抄』定一二〇七頁)として重要視された。
智顗は南三北七の邪義を破って法華最勝の義を立てたが、智顗の後、法相宗・華厳宗・真言宗等が興って法華経を下したのである。
湛然の「三十巻の末文」は智顗の教説を継承発展せしめ、天台教学の復興を達成したもので、法相宗・華厳宗・真言宗等の邪見を「一時にとりひしがれたる書」(定一二〇七頁)である。
聖人は本文の『法華玄義』と同様、本書を頻繁に引用し、本門教学の援証とされた。
《『遺文辞典』歴史篇「法華玄義釈籤」の項》
(日比宣正)