道邃
道邃
どうずい
(生没年未詳)
または「どうすい」。
(一)中国天台宗第七祖、世に興道尊者、止観和尚と称さる。
一〇年随侍した乾淑の『道邃和上行迹』によると、瑯瑯の王氏の出身、長安の人。
仕官して監察御史まで進んだが、辞退して出家し、二四歳具足戒を受け、慈恩の『法華玄賛』を写得したとき夢に一僧が現れて、何ぞ天台円頓の宗旨を聴かざると。
時に常州妙楽寺湛然盛んに天台宗を伝弘すと聞き、『玄賛』を捨てて南下し、揚州法雲寺に宿泊のとき、また夢に一僧を見る。
妙薬の講経すでに方便品に至らんとす、速やかに往くべしと。
馳せ赴くに果して夢の通りであった。
大暦年中(七六六-七七九)修学五年、業成る。
妙楽嘉して曰く「吾が子能く嗣ぎて吾が道を興さん」と、授くるに『止観』『弘決』をもってす。
人に請われて天台三大部を講ずること数度、また越州では歙州刺史に叙せられ、陸参より和上の号を奉上さる。
貞元一二年(七九六)天台山国清寺に入り、住山九年、学徒の為に天台三大部等を講じ、六時の行道を欠かさず。
また法華経一部、大小乗の戒本を必ず日に一度読誦した。
心情野鶴、起去白雲の如しと。
同二〇年台州刺史より龍興寺に請待され『文句』『止観』を講ず。
伝教大師が面奉したのはこの年の九月、および一一月から翌年三月までである。
著書に『天台宗未決』の決答あり。
『止観記中異義』も道邃作とされるが、実は乾淑の述記である。
伝教大師は入唐して道邃からは本覚門、行満からは始覚門を相承したといわれるが、これは中古天台の『漢光類聚』等が言い出したことであって、両師の述作および伝教大師著作からは、そういう相承があったことを伺うことはできない。
(二)『後五百歳合文』(定二二九三頁)に「義決云道邃」とあるのは、唐の道邃ではなくて、播磨の道邃(-一一五七)である。
著書に『宗要集姫路決』、『法華玄義釈籤要決』、『法華疏記義決』、『摩訶止観論弘決纂義』等がある。
《『仏祖統紀』八、『宋高僧伝』二九、『釈門正統』一、『遺文辞典』歴史篇「道邃」の項》