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伝教大師

でんぎょうだいし #572

伝教大師

でんぎょうだいし

(七六七-八二二)
諱は最澄
日蓮聖人遺文では伝教大師の外に「教大師」「根本大師」「叡山の大師」とも呼ばれる。
比叡山の日本天台宗開祖。
伝教大師は貞観八年(八六六)七月、安慧の発請により清和天皇より賜わった諡号
近江(滋賀県)大津市の人、姓は三津首(みつのおびと)、幼名は広野ひろの。
その祖は後漢献帝の苗裔の登萬貴王である。
王の移位以来四六〇余年を経て氏も栄え、父の三津首百枝(ももえ)に至る。
・儒に造詣深く、私宅を寺(坂本来迎寺西方の紅染寺趾)とす。
子を得んと願って叡山に登り草庵(今の神宮禅院)を結んで一七日参籠して夢に霊を感じて下山し、神護景雲元年(七六七)八月一八日(非際『伝教大師伝』。福井康順はその前年誕生と)。
一二歳近江分寺の大国師行表に従って出家し、一五歳近江国分寺僧の欠を補って得度、名を最澄と改めて沙弥となる。
以後の学習の骨子は「心を一乗仏教に帰せよ」(行表の垂訓、『内証仏法相承血脈譜』)であるから、殊に華厳学に心を傾けたであろう。
延暦四年(七八五)四月六日東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となり、三ヵ月は僧籍のある大安寺で修行したが、奈良は修行の地に非ずと心に決して七月一七日比叡山に退き、草庵を構えて(今の根本中堂の付近)独り修道生活に入った。
坐禅思惟の暇に『願文』を作る。
五ヵ条よりなるが、その一は「我まだ六根相似の位(六根清浄)を得ざるより以還、出仮(化他)せじ」(『伝全』一ノ一)というもので、志の高さや察すべきである。
行表ゆずりの華厳章疏を学習するうちに、法蔵の『大乗起信論義記』『華厳五教章』等は深遠な縁起思想を説いているが、これを心身に体得する修行法に関しては常に天台大師の『止観』を指南としていることに気付き(『叡山大師伝』)、その所在を尋ねると、幸い三〇余年前に鑑真が将来したことを知り「円頓止観・法華玄義・法華文句・四教義・維摩経疏」等を写得、披閲した。
以後延暦一七年までの一四年は山修代である。
この、延暦七年叡山を拓いて一乗止観院(根本中堂の前身)を創建して薬師如来像を安置し、このの法灯は不滅のまま今日に至っている。

延暦一七年天台大師の祥月である一一月、法華十講を山上で始修して、初めて化他行に赴いた。
叡山の年中行の一つである霜月会はここに始まる。
四年後の延暦二〇年のときは南都の大徳十師に『請十大徳書』を送り、一乗止観院に招いて一一月一四日から一〇日間十師に法華をぜしめた。
最澄は筆録して『屈十大徳疏』一〇巻とし(不現存)唐に持参して道邃・行満の批判を仰いだという。
延暦二一年の霜月会は和気清麻呂の四回忌に当り、子息の弘世・真綱は父追善のために建てた高雄山寺で会式を開催すべく要請しておいて、南都代表たる善議等の一四名に招待状を送り、最澄には『法華三大部』の講主たるべき依頼状を発した(『叡山大師伝』)。
に一月一九日。演は四月中旬から九月中旬まで五ヵ月。
桓武皇(時に六〇歳)は延暦一三年には平安遷都、二〇年には坂上田村麻呂をして蝦夷を平定せしめたので、残された業として新教を樹立して平安朝の指導精神たらしめることを志していたが、高雄講経の評判を聞き、まずその成否を知るべく八月二九日南都に口宣を発し、議これに応えて法筵を随喜する謝表を奉った。
このの状況は『撰抄』(一〇二七-八頁)『報恩抄』(一二〇八-九頁)等に詳しい。
次に九月七日皇は台開宗を発願して弘世に下問があったので、弘世は最澄と協議した結果、一には独習の台学の当否について確信を得るため、二には台章疏の誤字・脱行を匡すために『請入唐請益表』を奉って留学を乞うた。
皇は直ちに還学生として一年留学することを許可した。
延暦二二年四月、遣唐大使藤原葛野麻呂の船団に便乗、訳語僧として義真を同伴、難波を出航したが暴風に遭って九州に着し、一年九ヵ月太宰府の東方の竃門山寺(かまどさんじ)(不現存)に滞在、翌年七月六日松浦から出航。
第一船には大使・空海・橘逸勢ら、第二船には判官・最澄義真ら。
途中風濤に妨げられて他の二船は沈没、第一船は八月一〇日福州長漢県に漂着し、第二船は九月一日明州鄮県(浙江省寧波府)に着した。
唐暦では貞元二〇年。

九月一五日台州に向い二六日着。
竜興寺出張中の修禅寺座主道邃に即日面会、台州刺史陸淳は『摩訶止観』等の台典籍を書写して贈る。
ここで止観の講義を聴くこと一二日、再会を約して一〇月七日天台山に向い、薄暮、仏隴寺に着き、行満に謁す。
最澄が禅林寺に日本留学生用の僧房を寄進したのはこの頃。
行満所持の台典籍八二巻の施与を受ける等、計一〇二部二四〇巻を得た(『台州録』)。
一〇月一三日禅林寺僧翛然から『天竺大唐二国付法血脈』並びに達磨付法牛頭山法門を受け、二〇日行満から『学天台宗法門大意』を授かり、また国清寺の惟象から大仏頂大契曼荼羅の所事を伝え、二六日また行満から『仏隴道場記』・天台大師手書一紙等を譲与さる。
約一ヵ月台山に滞留して一一月五日行満と共に再び竜興寺に至り、約一三〇日間を道邃の会下にあって、親しく心要を聞き、咸く義を決す。
翌年二月一九日兼ねて約束の台書籍一二〇部三四五巻を陸淳から貰い、二月二九日には道邃に十箇の未決を問う。『天台宗未決』がこれ。
三月二日夜、最澄・義真は官僧二七人と共に竜興寺極楽浄土院にて道邃を戒師として円教菩薩を受けた。
三月二一日道邃の会下を辞去、二五日明州に到着。
遣唐使帰の乗船は四月一日入港したが、出航準備に一ヵ月半を要するので、最澄らはその間を利用して未得の天台章疏一七〇余巻を得るため越州竜興寺に行き、四月一九日順暁より鏡湖の東の峯山道場にて金剛界・胎蔵界の灌頂を受け、翌日『付法文』一首を授かる。
灌頂七日行鈔』等はこの時の行の記録であるといわれる。
さらに五月五日草堂寺大素・明州檀那行秘・開元寺法華院霊光からそれぞれ五仏頂法、普集壇・如意輪壇、軍荼利壇の雑密を受け、その合計一〇二部一一五巻の経疏を書写、同月一三日明州帰着、一九日出航。
唐土滞在八ヵ月と一九日、円戒禅密の四宗を相承した。
六月下旬入京、七月一五日『将来目録』『進宮録』上申、六祖湛然の章疏は最澄が初伝である。
皇は密教灌頂を行うことを発願し、弘世は詔を奉じて高雄山寺に大日大壇を築き、光意・円澄・の外に修円・勤操等の八大徳に対して九月一日金剛宝戒を授けて灌頂壇に登らしめた。
延暦二五年(八〇六)一月三日『請加新法華宗表』を上り、僧綱の審義を経て同二六日允許。
天台宗に対しては毎年止観業一人、遮那業一人の計二人の年分者が分与されることになる。
これ天台宗の開宗にして、時に皇七〇歳、三月一七日崩御。
以上は桓武皇の外護により順調であったが、以後は逆境代。
一に四月右大臣神王が死に、藤原内麻呂が後任、藤原冬嗣が蔵人頭となって氏寺の興福寺の復興を計ったこと、二に空海が大同元年(八〇六)一〇月帰朝、四年四月平城皇譲位。
翌弘仁元年(八一〇)九月薬子の乱に空海は勅令により治乱のため造壇祈祷して顕益を現じたことにより、嵯峨天皇の信任を独占したこと等により、最澄は不遇となる。
そこで最澄は外部への伸長から内部の充実に転向した。
一に三部長講会を大同四年二月に始修、弘仁三年七月上旬法華三昧堂建立。
二に空海に師して遮那の充実を計る。
大同四年空海が叡山を訪れた時に始まり、弘仁四年一一月『釈理趣経』の貸与を空海から断られるまで約五年続き、最澄は約四〇部の密教書の貸与(『伝教大師消息』)、弟子の指導の依頼を乞い、また弘仁三年一一月には金剛界灌頂、一二月には胎蔵界灌頂を自身受けた。
三には弘仁五年筑紫に巡化して観世音寺を見学、宇佐八に詣でて六所宝塔の一つをその境内に建立。
六年秋東巡化して下野薬師寺を見学、七年二月帰山。
以後入滅までの七年は法戦代である。

弘仁七年帰山後もなく、兼ねて著しておいた『依憑天台宗』に文を付して公表。これ法戦の口火である。
翌年二月『照権実鏡』を著して法相宗徳一の『仏性抄』を破し、逐次『一乗義集』『法華去惑』『守護国界章』『決権実論』等を発表して五性各別説・三乗真実説・不変真如説等を破し、弘仁一二年『法華秀句』を著して論争は終結した。
『伝全』巻二・三収、徳一著作は不現存。
最澄比叡山円教菩薩戒を天下三戒壇から別立する運動を展開した。
まず弘仁九年三月諸弟子に対し「自今以後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀に乖く。即ち自ら誓願して二百五十戒を棄捨し已ぬ」と告げ、五月一三日『天台法華宗年分学生式』(六条式)、八月二七日『勧奨天台宗年分学生式』(八条式)、翌年三月一五日『天台法華宗年分者回小向大式』(四条式)を上奏。
三式を合称して『山家学生式』という。
僧綱は四条式を奈良七大寺の僧に回送し、殊に東大寺の景深は『迷方示正論』を著して四条式に二八失を数えたが、良峰右大弁はこれを却下したので、五月一九日護命ら六人の僧綱連署して改めて『僧最澄奉献天台式並表奏不合教理』を奏して反対。
この表は光定を通して下渡されたので、直ちに『顕戒論』三巻を著して反論、更に『内証仏法相承血脈譜』一巻を著して自己相承の仏法の系譜を示し、弘仁一一年二月二九日『上顕戒論表』首を添えて光定に荷わせて嵯峨皇に奉った。
更に翌年三月『顕戒論縁起』二巻(下巻欠)を太政官の史記官に上進したが、僧綱達は沈黙を守って許可せず、最澄入滅の初七日の一三年六月一一日勅許された。
この年は三月山中の湿寒に犯されて病臥、四月諸弟子に六条の遺誡を記し(禅庵式)、一九日円仁一心三観の妙旨を付属(授慈覚大師附法文)、五月一五日義真に一宗を付属、六月四日辰の刻、比叡山中道院にて入寂、寿五七歳。
長四年(八二七)五月一日延暦寺戒壇院建立、伝教大師の諡号は貞観八年(八六六)七月一四日、安慧座主の奏請により下る。

日蓮聖人は何よりもまず伝教大師法華経の行者なりと規定した。
伝教大師が大陸から四宗を相承したことについては「法華宗と律宗とをば弘通ありて禅宗をば弘め給はず、真言宗をば宗の名をけづり七大寺等の諸僧に灌頂を許し給ふ」(定八七九頁)と見られる。
律宗とは天台円教菩薩戒であるから、結局天台宗三学の弘通である。
空海に師事したことについては言及がないが、晩年の円戒別立運動と一三権実論争とが伝教大師の生涯をかけた一大事業であることについては何人も異論のないところで、それもまた天台宗三学の弘通に外ならない。
殊に『依憑天台集』一巻を「秘書」(『撰時抄』『報恩抄』)と呼んで尊重し、ここに大師の円勝密劣の教判があるとし、また晩年の両論争を通じて徳一や六宗僧綱から蒙った数々の暴言と、それを法華経に照らして忍受したこと等を大きく取上げて法華色読の先蹤とされた。
『開目抄』に「日蓮云、日本に仏法わたりてすでに七百余年、但だ伝教大師一人計り法華経をよめりと申をば諸人これを用ず」(定五四九頁)、「日本国に此法顕るること二度なり、伝教大師と日蓮となりとしれ」(定五八三頁)とあるのはその謂である。
《『内証仏法相承血脈譜』、『顕戒論縁起』、『天台法華宗伝法偈』、仁忠『叡山大師伝』、光定『伝述一心戒文』、塩入亮忠『伝教大師』、浅井円道「日蓮聖人の伝教大師観」『日本仏教学会年報』二二号、『遺文辞典』歴史篇「最澄」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と伝教大師比叡山」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』六巻「最澄」の項、小松邦彰・花野充道『法華経と日蓮』(春秋社『シリーズ日蓮』一)
(浅井円道)

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