円澄
円澄
えんちょう
(七七一-八三六)
武蔵国埼玉の人、俗姓は壬生氏、延暦七年(七八八)道忠(鑑真弟子)に師事、法鐘行者と呼ばる。
同一七年叡山に登って最澄について受戒、円澄と称す。
同二四年九月、帰朝早々の最澄より高雄山寺にて奈良八大徳等と共に密灌を受け、大同元年(八〇六)一二月には一乗止観院にて百余人と共に天台円戒を受けた。
弘仁三年(八一二)一二月、最澄・光定・泰範と共に高雄山寺にて空海より胎蔵界灌頂を受け、翌年三月には金剛界灌頂を受けた。
晩年は寂光院を構えてそこに隠居したので世に寂光大師と称される。
承和元年(八三四)三月延暦寺伝燈法師の宣旨を蒙る。
これは義真に次いで非公式の第二代座主職である。
同年同月末西塔院を開創。
同三年一〇月二六日臨終の日諸弟子に告ぐ、我が命今夜にあり、我に疑問三十条等あり、円仁に寄せたいと思うと。
これ唐の広修・維蠲の西師の唐決となったもので、円仁・円載の両人の入唐に託して手交され、円載の手によって決が得られた。
その第二条の「毘盧遮那経何部何時何教摂之」の決は大日経方等部摂の決を得、日蓮聖人の大日経観を形成する基となった。
円澄に対する聖人の批判は二通りある。
一は円澄までは叡山は法華経の山であったという遺文に『撰時抄』(定一〇四二頁)『報恩抄』(定一二一七頁)『慈覚大師事』(定一七四二頁)があり、二は円澄は半ば空海の弟子でもあったから、一向法華経の人ではないとする遺文に『開目抄』(定五八〇頁)『報恩抄』(定一二一九頁)『諫暁八幡抄』(定一八三七-八頁)がある。
著作は『疑問三十條』の他に四部を伝えるが、現存しない。
《『天台座主記』、『元享釈書』二、『本朝高僧伝』五、『日本天台宗年表』、上杉文秀『日本天台史』、『遺文辞典』歴史篇「円澄」の項、『日本仏教人名辞典』「円澄」の項、『国史大辞典』二巻「円澄」の項》