一心三観
一心三観
いっしんさんがん
一心に空・仮・中の三観を修するの意。
円融三観・不次第三観または不可思議の三観ともいう。
『摩訶止観』巻五上に、「若し一法一切法なるは、即ちこれ因縁所生法にしてこれを仮名となす。
仮観なり。
若し一切法即一法なるは、我説即是空に、して空観なり。
若し非一非一切なるは即ちこれ中道観なり。
一空一切空にして、仮と中と空ならざることなきは総空観なり。
一仮一切仮にして、空と中と仮ならざることなきは総仮観なり。
一中一切中にして、空と仮と中ならざることなきは総中観なり。
即ち中論に説く所の不可思議の一心三観なり」と述べられているが、これが天台教学にいう一心三観のきわまったところである。
一心三観は、円教の観法であるが、これにつき『維摩経玄疏』巻二に「一心三観を弁ぜば、正しくこれ円教利根の菩薩の修習するところなり」と述べられている。
この一心三観は天台智顗以前、北斉慧文によって唱えられたといい、慧文は龍樹の『大智度論』の一応三智の文によって開悟したと伝えられている。
しかるに一方智顗は三観を主張するのに『菩薩本業瓔珞経』の説に従ったという説もあり、智顗の教学における一心三観については未だ検討すべき多くの問題を内包している。
《『遺文辞典』教学篇「一心三観」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「一心三観」の項、『天台学辞典』「一心三観」「三諦三観」の項》