維摩経
維摩経
ゆいまぎょう
梵名Vimalakīrti-nirdeśa、三訳あり。
(1)呉の支謙訳、二巻または三巻、具さには『維摩詰所説不思議法門経』、また『普入道門経』『仏法普入道門三昧経』。
(2)姚秦の鳩摩羅什訳、三巻、『維摩詰所説経』、『不可思議解説経』。
(3)唐の玄奘訳、六巻、『説無垢称経』。
異称として『浄名経』ともいう。
一般には(2)を指す。
維摩詰は維摩羅詰・毘摩羅詰利帝とも書し、浄名・無垢称と訳す。
維摩居士・浄名大士等と敬称する。
中印度毘耶離城Vaiśālīの長者、在家にして大乗菩薩の行業を修し、無生忍を得て弁才無礙であったという。
維摩詰が証った不可思議解脱の法門を説き、般若皆空の思想に立って妙有の道理を示し、小乗を破して大乗に摂入するのを根本趣意とし、芸術的表現が勝れた点で華厳・法華・譬喩・金光明・勝鬘等の諸経と双び称せられ、大乗仏教興起時代における在家居士の思想、動向を示す代表的な経典である。
すべて十四品。
第一仏国品には仏が一時、大比丘衆及び諸菩薩らと共に毘耶離城菴羅樹園中にあったとき、長者の子の宝積が五〇〇の長者の子と共に各々宝蓋を持し、これを仏に供養したところ、仏は威神力をもって諸の宝蓋を合して一蓋とし、蓋は三千世界を覆い、その中に大千世界の広長の相、並に十方諸仏説法等の相を現じた。
大衆は未曽有なりと歎じ、宝積は偈をもって仏を讃じたと記し、次いで仏は宝積が浄仏国土とはどういうものかと質問したのに対し、若し浄土を得ようとするならば、まさにその心を浄くすべく、その土の衆生の心浄きに随って即ち仏土もまた浄いのだと説いた。
第二方便品には毘耶離城中の長者維摩居士が我が身に疾を現じ、国王大臣等が病気見舞に赴くと居士は、此の身の無常にして厭うべく、仏の法身の願望すべきことを教え、以て菩提心を発さしめたことを記し、第三弟子品、第四菩薩品には仏は舎利弗・大目犍連・大迦葉・阿難らの諸大弟子、弥勒菩薩・光厳童子・持世菩薩らを次々に指名して居士の病気見舞に赴かせようとしたが、皆は曽つて居士のために説き伏せられたことを述べ、使者の任に堪えないとしてお断りしたことを叙述している。
第五文殊師利問疾品には、仏は遂に文殊師利を使者に命じたので、使者に赴くことを遠慮した諸菩薩や大弟子らも文殊と維摩が問答するならば、恐らく立派な法門が説かれるであろうと期待し、文殊に従って維摩のもとに赴いた。
然るに神通力で維摩はこのことを知り、邸宅・家僕などをすべて消して、ただ方丈の一室に一床のみを残し、これに臥して彼らの来るのを待った。
因みに「方丈」の語をこの経を初出とする。
文殊はまず、居士は一切を知見している人であるにも拘らず病となったという。
その原因は何かと質問。
居士は我が病は癡と有愛とによって生じ、一切の衆生病むが故に我れまた病むと答えた。
下化衆生の思想を端的に示した名言である。
更に文殊が室の空なる所以を問うと、諸仏の国土もまた皆空であると答え、有疾の菩薩を慰喩する法を問うと、身の無常有苦無我空寂であることを説き、まさに医王となって衆病を療治し、それをして歓喜せしむべしと答え、病の本である攀縁を断じて無所得に住し、もってその心を調伏すべしと答えたことを記している。
これは般若の思想を説くと共に、無所得の思考は後世の禅家に先駆するもので、後の禅宗でこの経を重視するのもこのためである。
第六不思議品には、舎利弗が居士の室中に大衆の坐るべき牀座がないことを心に思ったところ、維摩はこれを見抜き、汝は法を求むるがために来たのか、牀座のために来たのかと反問し、法には処所なく、処所に著したならば、それは真に法を求めるものではないと語り、次いで神通力をもって東方須弥相世界須弥燈王仏の所から三万二千の高広な師子座を室内に運び、大衆にこれに腰かけるように勧めた。
諸菩薩はみなその上に坐ることができたが、大弟子らは登ることができなかった。
そこで居士は大弟子らをして須弥燈王如来を礼せしめてその座に就くことができるようにした。
また舎利弗が小さい室内にこのような高広な多数の座が入ってしまった不思議さを感歎したのに対し、不可思議解脱を体得した菩薩は須弥山を芥子粒の中に入れるもまた増減するところなしと語った。
ここにいう舎利弗は小乗仏教徒を代表し、須弥の高広をもって芥子中に入れることができる、と説くのは後に華厳経に説く極大の大、極微の微、即ち事々無礙法界の思想の先駆をなすものである。
第七観衆生品には、菩薩は衆生の如幻を観じ、しかも慈悲喜捨を行じて衆生を度し、また無住に住して、しかも一切法を立てることを明し、次には舎利弗は室の一隅に現れた天女が散じた華が諸大弟子には着いて堕ちないので、これを取り去ろうとしたのに対し、天女は分別あるものには華が付着し、分別の想を断じた菩薩には付着しないことを説き、これを諸大弟子が納得したとき、華はハラリと落ちたと説いている。
ここにも小乗の立場と大乗の立場とが明確に示されている。
第八仏道品には文殊の質問に対して居士は、貪欲を行ずることを示していても染著を離れ、愚癡を行ずることを示していても世間出世間の慧に通達しているのが如来の種である。
煩悩を断じようとする声聞は遂に発心の期なしと説き、普賢色心菩薩の問いに答えて、我れは智度を母とし、方便を父とし、法喜を妻とし、慈悲心を女とし、畢竟空を舎となすと述べている。
第九入不二法門品には維摩の請いによって法自在菩薩以下文殊に至る三十二菩薩は各々の順次に入不二法門を説き、最後に維摩の番になったとき、維摩は黙然として一語も発しなかった。
これを見て大衆は粛然と襟を正し、文殊は文字語言なきを真の入不二法門であると讃歎した。
本経においてこの個処は正に最高潮に達し、古来「渕黙雷轟」と称せられている。
また禅家ではここを強調している。
第十香積仏品では既に食事の時間になったので舎利弗はこれを心に思い浮かべたのを居士は知り、化菩薩に命じて上方衆香国香積仏の所から甘露味の香食を取寄せさせ、この食物は大衆が飽食してもなお元の如くに増減なく尽きることがなかったという。
仏法を食物に喩えたのである。
第十一菩薩行品では、居士は文殊らと共に仏の住せられる菴羅樹園に赴き右繞七匝し、席が定まると舎利弗は仏の問いに対して居士の不可思議自在神力を見たことを叙べ、阿難の問いに対して香気が芬郁とした由来を説き、また衆香世界から香食を持参した菩薩のために尽無尽解脱法門を説いたと記している。
第一二見阿閦仏品には、まず居士が仏の問いに対して自ら如来を観ずる相を説き、次に舎利弗の質問に答えて仏が、居士は妙喜世界無動如来の所からこの土に来生した者であると告げ、大衆が彼の世界及び無動如来を見ることを渇望したのに対し、居士は神通力をもってこの土に彼の世界を置き大衆にこれを見せたことを述べている。
第一三法供養品では、まず帝釈がこの経受持の功徳を述べ、仏はこれを讃歎して諸仏の菩提は皆これより生ずと説き、次に過去世で薬王如来出現の時、王子月蓋が供養したが、その中でも法供養が最も勝れていたと説き、第一四嘱累品には弥勒にこの経を付嘱し、最後に阿難の問いに対してこの経の名を宣示して巻を終っている。
この経は羅什の門人僧肇の『注維摩経序』によると、姚秦弘始八年(四〇六)姚興の命により羅什が義学沙門一二〇〇人と共に長安大寺で訳出したとあり、妙法蓮華経訳出と同年の訳である。
天台大師の五時八教判では第三方等部の代表的経典とされ、二乗を弾呵する役割を有する。
従って日蓮聖人も法華以前の大乗では二乗がいかに排斥されていたかを述べるとき、必ず引合いにこの経の文が出される。
《『遺文辞典』歴史篇「維摩経」の項、『大蔵経全解説大事典』「〇四七四・仏説維摩詰経」「〇四七五・維摩詰所説経」「〇四七六・説無垢称経」の項、『大乗経典解説事典』「空・中観部」、『仏書解説大辞典』「維摩詰経」「維摩詰所説経」「説無垢称経」の項、『岩波仏教辞典』「維摩経」の項、『図説仏教語大辞典』「維摩居士」の項》
(野村耀昌)