和讃
和讃
わさん
和文による仏教讃歌の一種で、その内容は仏・菩薩の功徳や教法、また祖師・高僧等の行跡をほめたたえたものが多い。
多く、七五調の四句で一節をなし、一種の曲調を付して賦詠する。
いわば、和讃は宗教的讃歌、宗教詩、詩の形において表現された宗教でもある。
従って日常諷誦の間にあらゆる階層の人々に経釈の深意を理解し、教義を領解させるという大きな魅力をもつ。
和讃の成立は古く、およそ平安時代中期までさかのぼる。
その歴史は普通、和讃の成立期である平安時代、真宗・時宗・浄土宗等、浄土教系和讃を中心とする隆盛期の鎌倉・室町時代、和讃の量こそ多いが質的に劣る衰退期の江戸時代の三期に区分され。
とりわけ、和讃史上隆盛期の鎌倉時代を代表する親鸞の場合、正信偈や三帖和讃をぬきにして親鸞を理解できず、それは親鸞の宗教そのものの本質的な表現であるとまでいわれる。
後世、真宗教団において正信偈や和讃の諷誦が一般の宗教的儀礼となったのも、このような点に理由があるとされている。
一方、日蓮宗の和讃は、そのほとんどが日蓮聖人一代の教化弘通を讃仰したもので、教義和讃は少ない。
しかも、中世和讃は少なく時期的には江戸時代以降のもの、つまり和讃史からみれば衰退期とみなされる時期に集中的に成立する。
和讃を民衆教化の手段としたために、説明を旨とし教導を目的としたものが多く、文学的価値の高いものは稀である。
中世の日蓮宗和讃には「法華和讃」と「釈迦如来和讃」の二点の中世和讃が教団に伝えられている。
法華和讃は日蓮聖人作と伝え、『昭和定本日蓮聖人遺文』第三巻に収録されているが、真筆・古写本の類も存在しない。
法華和讃の名前が教団の記録に現れるのは、室町中期の円教院日意の『大聖人御筆目録』(意師目録)の中の「日意私所持分」が最初である。
そして、天正十一年(一五八三)鳴滝三宝寺の録外御書編纂の目録『三宝寺録外御書目録』に入り、更に寛文二年(一六六二)初めて録外御書が刊行されるに及び、そこに収録されて『法華和讃』は日蓮聖人遺文の中に定着していった。
つまり法華和讃が記録として初出する時期が室町中期であり、御書蒐集の最も早い富木日常の『常修院本尊聖教事』や日祐の『本尊聖教録』にも見えず、行学院日朝の目録にもなく、突然、日意の「私録」に現れてくることなどから、法華和讃を直ちに日蓮聖人作とするには、否定的な要素が多いようである。
しかし、本和讃は先行和讃の影響を受けつつも、創作された中世の和讃であることは間違いない。
釈迦如来和讃は、大永六年(一五二六)六月一日の一如房日尚の書写本を身延文庫に所蔵する。
本和讃は二五〇余句の長編和讃であるが、日蓮宗徒の手に成るものではなく、源空作とされる『涅槃和讃』を底本とし、日蓮宗和讃として改変、導入されたものである。
改変された主点は一乗法華の教法の強調と末尾の「願共諸衆生 一供結縁者 臨終住正念 往生安楽國」が除かれ、浄土教の色彩が除去されたことである。
中世の日蓮宗和讃は、以上の二点であるが、近世の和讃はその数も極めて多い。
近世の日蓮宗和讃は、ほとんどが日蓮聖人一代の教化弘通を鑽仰した日蓮聖人和讃である。
それがまた、この時期の和讃の特色である。
延宝九年(一六八一)日蓮聖人四百遠忌を記念して刊行した『日蓮聖人御伝記』十一巻(京都 中村五兵衛刊)の中に、「日蓮大聖人和讃の事」と題し収録された和讃が、文献に表われた最も早い日蓮聖人和讃であろう。
本和讃は七五調で一二音を一句とした三七七句から成る長編和讃である。
本和讃の序で伝記の著者は「むかしより大聖人の和讃とて世に弘まりぬれど、今はしる人もなし。
(略)当宗たらん人は読むべき事なりかし。かるがゆへに爰にこれをうつし侍りぬ」という。
本和讃が延宝九年(一六八一)以前から大聖人和讃として世に流布していたことと、本和讃が歌う和讃ではなく読む和讃として受容されていたことを知る。
やがてこの「日蓮聖人和讃」は大いに弘まり、本和讃だけが『日蓮聖人御伝記』から独立し、享保元年(一七一六)には加賀金沢の書林さんか屋から、また同じ頃『日蓮聖人略和讃』と題して江戸でも刊行された。
ここに本和讃は京都・金沢・江戸と地域的な広がりをもって流布していった。
いっぽう、『日蓮聖人和讃』が流布していた享保六年には、江戸の著名な浮世絵師である石川流宣が『日蓮聖人唄題目』(一名「関東和讃唄題目」)と題する三巻本の和讃を著わし刊行する。
本和讃はその序によれば、巷でうたわれている日蓮聖人和讃、つまり東(あづま)のはやり唄は、竜口の御難をおぼえて星下りの奇瑞を知らず、或は身延をうたうけれども、そのすべを忘れるといった極めて断片的な和讃であったことから、七字五字の形式をふみ、日蓮聖人の一代記和讃に整備し刊行したものである。
七五調の調子のよさと軽妙なタッチでえがかれた内容は、多くの人々に受容される要素を備えていた。
享保六年江戸で刊行された本和讃は、文化二年(一八〇五)には大阪で、更に文政七年(一八二四)には再び江戸・大阪で刊行されるなど多くの版を重ねた。
そうした背景には、当時のうれっ子浮世絵師石川流宣の著わした和讃であったこともさることながら、近世中期以降の祖師信仰の高まりにともなう、かかる日蓮聖人和讃への要請が、本和讃を一層流布させていったと考えられる。
近世の日蓮宗和讃は、以上のような和讃の形式に整えた読むための和讃と、さらにうたいつがれ伝えられてきた和讃がある。
日蓮聖人弘通の生涯を鑽仰した日蓮聖人一代記和讃が現在でも各地で歌いつがれ、また既にうたわれることなく歌詞だけが残っているところも多い。
なかでも、青森、千葉県には多くの日蓮聖人和讃が残存し、うたいつがれている。
例えば、全文同一の和讃が現在でも各地で、「題目踊歌」(干葉県勝浦市上行寺)「花踊り」(干葉県鏡忍寺)、「日蓮聖人御一代歌題目」(青森県蓮華寺)と呼ばれ歌われている。
また、この和讃の亜流と考えられるものが岡山・和歌山県等の各地に残っている。
千葉県上行寺の「題目踊歌」は所伝によれば天正一〇年(一五八二)この地を弘教した仏乗院日惺が、本行寺で一日一座、五〇日の布教をしたことに始まる上総五十座と共に伝えられ、享保年間以降になるとこの長座で布教師が語る聖人一代記と、そこにうたわれる聖人和讃とがあいまって、一層盛んになったという。
また青森県蓮華寺の「日蓮聖人御一代歌題目」も、安政四年(一八五七)旭日苗が蓮華寺に留錫した時、信者に教えたものであるという。
いずれも近世中期から後期にかけて和讃が流布していたことを指摘するが、それは次の理由から首肯される。
近世中期の享保年間以降、既に紹介した読む和讃としての各種聖人和讃が広く流布していたし、またこの頃、巷間に聖人和讃が流布していたことは、石川流宜の「日蓮聖人唄題目」が、当時うたわれていた東(あづま)のはやり唄題目和讃に刺激されて本和讃を著わしたことからもわかる。
また、近世後期、柳水亭種清が著した『高祖菩薩妙法記』(明治初期の刊行)に収録された五点の和讃「妙法和讃」「妙法摩利うた」「新妙法摩利うた」(三種)は、いずれも近世後期、実際にうたわれていたものを、そのまま本書の付録として収録したものである。
なかでも「新妙法摩利うた」の一種は、現在でも干葉県上行寺・鏡忍寺でうたわれている「ひげ題目」和讃と同じであることからもわかる。
現在、各地に残る和讃がいつ成立し、また伝えられたかを明確にすることは困難である。
しかし、かかる和讃が近世中期から後期にかけて成立し、各地に流布していったことは以上の点から明らかとなる。
そして、このように多種多様な日蓮聖人和讃は伝記本と同じく、読む者・歌う者に日蓮聖人の生涯や、イメージとしての日蓮聖人像を構築させるに大きな役割を果した。
また、近世中期以降の日蓮聖人和讃の集中的な成立の要因は、真宗和讃等の先行和讃の影響もさることながら、祖師信仰の急激な高まりと、近世的講組織の成立とその全国的な広まりにあり、ここに近世においては教義和讃よりも日蓮聖人和讃が集中的に生み出される最大の要因があった。
そして、日蓮聖人和讃がこうした中で一般の人々はもとより、講中組織の和讃として受容されたところに、その流伝性・大衆性,庶民性といった特質を見出すことができ、それはまた近世日蓮宗和讃の最大の特色でもあった。
現在、身延山では「法華和讃信行会」が結成され、宗門行事や法会の折に奉詠されており、各地の寺院・教会・結社でも「和讃の会」が結成されて、折あるごとに奉詠されている。
《青森県立正青年会編『日蓮宗和讃全集』、冠賢一「日蓮宗の和讃について」『大崎学報』一二五・六合併号、『国史大辞典』一四巻「和讃」の項》
(冠賢一)