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安然

あんねん #1687

安然

あんねん

(八四一-九〇三-)
金剛名を真如金剛(『瑜祇経疏』等)・福寿金剛(『蘇悉地羯羅重玄門儀軌』等)と称し、世に五大院先徳・阿覚大師と尊称さる。 晩年、比叡山草堂寺の五大院(『普通広釈』)に退蔵して述作に専念したところから五大院と呼ばれ、また慈覚大師が阿っぐ大師と呼んだので阿覚とも称されたのである。 台密の大成者。 俗名は三津首(『時諍論』に「安然在俗則伝教大師之苗裔」と自記)、出羽置賜郡高畠(山形県東置賜郡高畠町)の人とも近江(滋賀県)の人ともいわれる。 志田義次の子、母の名は牡丹(敬光『三聖二師小伝』)。 『時諍論』に自ら「在道則慈覚大師之門人也」というように、円仁の弟子を自任し、円珍の影響はその学上には殆ど認められない。
一九歳で円仁を戒師として菩薩戒を受け、円仁が入滅する二四歳まで五年間師し、その後は兄弟子の遍昭(元慶寺開山)について学習し、遍昭の愛顧を蒙って学を成満。 『妙一女御返』に「安然和尚は安慧和尚の御弟子也」(定一七七九頁)とあり、典拠は不明であるが、安慧は円仁の高弟であるから、安然は必然的に安慧にも師したとみられる。
元慶元年(八七七)、済詮・玄昭・観渓らとの入唐は失敗に終わったが、入唐に備えて日本伝来の一切の密教の収集をすさまじい熱意をもって志したことは、台密の大成の基盤となった。 密教諸師からの密教相承の模様は『胎蔵界大法対受記』『金剛界大法対受記』に詳しい。
元慶八年、元慶寺に伝法阿闍梨の設置が認可されたとき、遍昭の奏請により、惟首と共に伝法阿闍梨位につき、同に蘇悉地の信を受法して三部都法大阿闍梨となった。 のち比叡山の草堂寺(所在不明)の五大院に退いて著作に没頭した。
入滅の地については山形県高畠町沢山中説、三井寺別所の滋賀県大津市近松寺説、神奈川県星野説、比叡山大日院説、千葉県長生郡長柄町道脇寺説などがある。 寂年は不明。『遺文辞典歴史編』(三七頁)には寂年は「寿六二もしくは六三」とある。 安然は餓死したという伝説も多く(無住『雑談集』五等)、光宗『溪嵐拾葉集』一四によると「終焉の、東寺の門側にして土を掘り食て餓死し給へりと」とある。
著述は『台霞標』の撰定目録によると九三部一七二巻に達するが、遺文に引用された分は『教時義』四巻・『菩提心義』一〇巻・『教時諍論』一巻(『正蔵』七五巻ではこれを「教時諍」と呼び、『教時諍論』は別箇の著述となっている)・『普通広釈』三巻・『安然私記』(不現存)の五部である。
これによって日蓮聖人が抱いた安然観は、
(1)顕密勝劣については円仁理同事勝教判の信奉者と見た(定一三七三頁等)。
(2)『時諍』に九宗判を立てて第一真言宗・第二禅宗・第三天台宗・第四華厳宗等と示したことが原因となって禅宗が日本国に興隆することになった(『撰抄』)と見られる。
(3)『普通広釈』からの影響は大きく、『災難興起由来』『災難対治鈔』『十法界明因果鈔』等に本書からの引用がある。
伊豆流中の著作の『四恩鈔』には『心地観経』の四恩説に基づいて四恩を解説し「円頓の戒を受ん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり」(定二三九頁)としているのは『普通広釈』が四恩報謝の精神をもって円戒の持の根本とする趣旨に沿うものである。
《橋本進吉「安然和尚事蹟考」『史学雑誌』二九-八、清水谷恭順『天台密教の成立に関する研究』、浅井円道「宗祖と五大院安然」『大崎学報』一二五・六号、『遺文辞典』歴史篇「安然」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』『日本仏教人名辞典』「安然」の項

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