慈覚
慈覚
じかく
(七九四-八六四)
諱は円仁、また前唐院、覚とも呼ばれる。
慈覚大師の号は第四代座主安慧の請により貞観八年(八六六)清和天皇から賜わった諡号である。
延暦寺第三代座主。
俗姓は壬生氏、栃木県下都賀郡壬生町の人。
九歳同郡の大慈寺広智について出家し、一五歳広智に伴われて比叡山に登り、最澄の弟子になる。
最澄は俗諦常住について円教を弘通せよと常に誡めたという。
弘仁七年(八一六)東大寺で具足戒を受けて比丘となり、翌年には徳円と共に最澄より円頓大戒を受けた。
弘仁一三年六月最澄入滅。
時に円仁二九歳、一五年間最澄に師事したわけである。
翌年止観業の学生(『学生名帳』)として一二年間の籠山行に入ったが、大衆の懇請黙しがたく、六年目の天長五年(八二八)夏には山を出て法隆寺に法華経を論じ、翌年夏には四天王寺で法華、仁王の両経を講じた。
天長一〇年四〇歳身疲れ眼暗く、寿命久しからずと思い横川に隠遁した。
今の首楞厳院はその旧跡である。
蟄居三年、夢に不死の霊薬を服して身心爽快となり、石墨草筆をもって一字三礼して法華経を書写した。
これ如法経の創始であり、のちこの堂を如法堂と称した。
承和二年(八三五)入唐請益の詔を拝したが、再三の入唐の企ても逆風にあって失敗し、同五年六月円載らと共に漸く入唐に成功、陽州海陵県に安着。
在唐一〇年、全雅・元政・義真・法全・惟謹に密教、宗叡・元侃・宝月に悉曇(以上八大徳)、志遠・玄鑒・宗頴に天台教学、蕭慶中に禅法を学んで帰朝した。
その間、五台山では志遠が日常修した引声念仏・法華懺法を習得し、長安滞在六年の間には徳円・光定が提出した疑問に対する決答を宗頴から得た。
『撰時抄』に「慈覚大師御入唐(略)天台宗の人々広修、維蠲等にならわせ給」(定一〇四二頁)、『報恩抄』に「天台宗の志遠・広修・維蠲等に習」(定一二一二頁)と、円仁は広修・維蠲にも天台宗を習学したとするのは誤記である。
また『随自意御書』に「宗叡・志遠等に値給ひて天台宗を習」(定一六一六頁)とある中の宗叡は宗頴の記憶違い。
入唐に関する詳細は円仁著『入唐求法巡礼行記』、将来書籍・道具については三種の将来目録を参照されよ。
承和一四年一〇月太宰府着、翌年三月入京した円仁は、六月伝燈大法師位を賜い、七月内供奉。
嘉祥三年(八五〇)四月熾盛光仏頂法を修することを請うて叡山に総持院を建立させ、同年一二月には金剛頂・蘇悉地両業の年分度者二人を賜わることが勅許され、翌年にはこの両業学生の勉学の便のために『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』の製作に着手し、斉衡二年(八五五)に完成した。
稿成り、二疏一四巻を仏前に置き、一七日の祈請をこらして仏意に叶うか否かを試みたところ、五日目の五更に日輪を射て動転せしめた夢を見て仏意に叶うと判断し、後世に伝えることにしたという。
またこの年五台山の念仏三昧の法を諸弟子に伝授して常行三昧を始修した。
仁寿四年(八五四)四月天台座主。
七月最澄師のため浄土院廟供を始修、一一月天台大師供を始修。
斉衡三年三月文徳天皇に両部灌頂を授け、貞観元年(八五九)内裏にて清和天皇に、翌年には淳和太后に菩薩戒を授け、また太后のため『顕揚大戒論』八巻を撰す。
貞観五年一〇月熱病を患い、翌年一月一三日諸弟子に遺誡し、翌日慈叡の房に移り、弥陀を念じ、三密の行相を整えて入滅。
時に七一歳。
遺体は北天梯庵の中岳に葬られた。
ここを華房という。
『太田殿許御書』『報恩抄』『慈覚大師事』によると、墓所の所在は不明であり、世間の取沙汰では御頸は身から切離されて出羽国立石寺にあるという。
現に立石寺には慈覚大師の入定窟がある。
著書凡そ一〇〇部と伝えられるが『日本大蔵経』に収めるところは三四部、主たるものは顕教部では『境智一心三観文』、○『法華迹門観心十妙釈』、『法華本門観心十妙釈』、『三身義私記』、『俗諦不正不滅論』各一巻などがあり、密教部では『真言所定三身問答』一巻、○『金剛頂大教王経疏』七巻、○『蘇悉地羯羅経略疏』七巻などがあり、円戒部では『顕揚大成論』八巻、旅行記には○『入唐求法巡礼行記』四巻がある(○印は日蓮聖人所覧の本)。
円仁の教判論には絶対判と相対判とがあり、絶対判は『金剛頂経疏』の説教段の中に元政の言葉「若し真言に就きて教を立つれば、一大円教といふべし。
如来の演ぶるところは真言秘密の道に非ざることなきが故に」を引いて一切仏教を真言密教中に包摂するのがそれであり、それは台密の顕密一致の教風を宣揚した教相である。
次に相対判とは『蘇悉地経疏』請問品の解釈の中に、顕教とは世俗勝義円融不二を認めない三乗教、密教とは円融不二を説く一乗教であるが、密教の中でも華厳・維摩・般若・法華等の一乗教は三世如来の身語意密を説かないから理秘密教、大日・金剛頂経等はこれを説くから事理倶密教であるというのがそれで、それを日蓮聖人は理同事勝と命名し批判された。
円仁批判の時期は四七歳作の『一代五時図』に方等部所属の真言三部経を所依とする真言宗の人師として畏・智・空・海と共に「慈覚大師・智證大師」と明記する(定二三〇〇頁)のが初見であるが、本書に対しては建治二年説(『日蓮大聖人御真蹟対照録』上)もある。
次に五一歳作の『開目抄』の中に「慈覚大師等の真言勝れたりとをほせられぬれば、なんどをもえるはいうにかいなき事なり」(定五八五頁)とて公然と円仁を名指しで否定する文がある。
しかし佐渡期の円仁批判はまだ寥々たるもので、本格化するのは身延期である。
ことに『撰時抄』『報恩抄』『下山御消息』などは激しく、その意見を要約すると、円仁は最澄に一五年間師事したから、師意が法華天台宗にあったことは承知していたに違いないのに、入唐後は師意に背いて理同事勝を立て、真言宗を興隆して台密の元祖となった。
故に円仁は「伝教大師に逆らへる僻人」(定八五五頁)「法華経伝教大師の師子の身の中の三虫」(定一〇五二頁)「本(師)伝教大師の大怨敵」(定一五七九頁)であると。
善無畏・空海に対する批判は佐渡配流前に既に本格化しているが、円仁批判がこのように遅れたのは『祖書綱要』にもいうように、佐前の聖人は天台沙門であり、自宗の先輩たる円仁らを種々に批判することを差控えたものと思われる。
しかし一旦否定すると決意してのちは、空海よりも円仁の法華誹謗の罪は重いと見た。
『報恩抄』に「弘法大師の御義はあまり僻事なれば弟子等も用ふる事なし(略)慈覚・智證の義こそ真言と天台とは理同なり、なんど申せば皆人さもやとをもう」(定一二一七頁)とある。
《寛平親王撰『慈覚大師伝』、『入唐求法巡礼行記』、『元亨釈書』三、『本朝高僧伝』六、福井康順編『慈覚大師研究』、浅井円道『上古日本天台本門思想史』、『遺文辞典』歴史篇「円仁」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』二巻「円仁」の項》
(浅井円道)