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智證

ちしょう #3261

智證

ちしょう

(八一四-九一)
字は遠塵。
延暦寺第五代座主、また園城寺中興の祖、天台宗寺門派の派祖である。
日蓮聖人遺文中では「山王院」「後唐院」「證」とも呼ばれ、延長五年(九二七)一二月に智證大師の号を勅賜さる。
俗姓は和気氏、川県仲多屋郡金倉の人、童名は広雄、空海の俗甥という。
一四歳を去って京都に上り、翌年叔父僧仁徳に伴われて叡山に登り、座主義真に師
長九年(八三二)一九歳、年分度者の一人に加えられて受戒し、円珍改名
翌年『大日経』の試業を経て甲科に上り、四月一五日延暦寺戒壇院で義真に菩薩戒を受けて比丘となり、一二年の籠山修行に入る。
籠山中の承和九年(八四二)五月伝教大師が順暁から相承した三種悉地印信を徳円から受け、籠山満行の翌々年の承和一三年延暦寺大衆に推されて真言学頭となり、嘉祥二年(八四九)内供奉十禅師、翌年伝燈大法師位に叙さる。
仁寿元年(八五一)四月入唐求法の詔を得て京を出発し、太宰府に留ること足掛三年、仁寿三年七月唐商欽良暉の船に乗り、八月一五日福州連江県に着く。
開元寺に宿泊、寺中で中僧般若怛羅に会い、梵字を習う。
一〇月温州開元寺にて四分新疏等を受け、一二月台州國清寺にて物外に止観を聴き、また章疏三〇〇巻を書写。
翌年二月禅林寺を訪れ、九月越州開元寺に行き、良諝に謁して台学を聴く。
入唐第三年の斉衡二年(八五五)四月蘇州にて円載と会い、五月同行して洛陽に赴き、六月長安青竜寺に法全を尋ねて密教を学び、七月竜興寺にて円載と共に三摩耶戒、次いで胎蔵灌頂、一〇月には金剛界灌頂を受けた。
そこで法全は両部大阿闍梨位灌頂を授け、伝法の信として五鈷杵五鈷を施与した。
また智慧輪は両部曼荼羅の秘旨を伝えた。
一二月洛陽広化寺に善無畏の舎利塔を礼し、翌斉衡三年一月龍門西岡に金剛智の塔を礼す。
五月再び越州開元寺に良諝を訪い、台章疏を受け、六月台山に登って國清寺に詣り、曽て最澄建立の留学生宿舎を再建して篇して台山國清寺日本國大徳僧院と号す。
安二年(八五八)六月八日台州を発し、同月二二日太宰府着、一二月入京して出雲寺に寓し、翌貞観元年(八五九)勅により山王院に住す。
よって円珍山王院と称す。
またこの年園城寺長吏に補され、寺内に仁寿殿を移して後唐院を建て、貞観八年五月園城寺は延暦寺別院となり、円珍はその別当となった。
同月二九日円珍に真言止観弘伝の公験を賜い、六月三日には真言止観両業に通ずる者を天台座主となし、以後これを永式となすむねの宣旨を賜う。
この両勅の一部は『報恩抄』に収められ、円珍が真言止観を済等と考えた証拠に供せらる。
貞観九年六月『講演法華儀』撰述。
貞観一〇年四月安慧寂、六月安慧の後を継いで第五代座主となる。
同月円珍に園城寺を伝法灌頂道場として賜わったので、唐より将来の経巻を悉くここの後唐院に移した。
山門寺門の別はここに始まる。
貞観一五年四月『延暦寺賢義式』を定め、九月三種悉地法を遍昭に付し、三部灌頂をも授けた。
貞観一九年三月陽成位に際して宮中で仁王講の講師を勤め、元慶六年(八八二)『些々疑文』(疑問略抄)を勘合し、『釈摩訶衍論』の真偽と作者を問う書簡を添えて弟子三慧し、唐の智悉輪に呈出した。
翌年三月法眼和尚位。ち天台座主として僧綱になった最初である。
元慶八年二月『授決集』二巻を撰し、仁和三年(八八七)三月大比叡明神のためには大日経業、小比叡明神のためには一字頂輪王経業の二人の年分者を賜う太政官符を受く。
翌年六月『普賢経記』を撰し、一一月一七日三箇条の遺誡を記し、寛平二年(八九〇)一二月少僧都に任ぜられ、寛平三年一〇月二九日『涅槃経疏』一五巻の校訂を志して校本を手にしたまま入寂した。
在位二四年、寿七八歳。
著書の現存するものは『智証大師全集』四巻に収められる。
今その中の代表作を列挙すれば、顕教部では○『法華論記』一〇巻、○『授決集』二巻、○『普賢経記』四巻、○『玄義略要』一巻、『諸家教相同異略集』一巻、密教部では『大日経心目』一巻、○『大日経指帰』一巻、○『大日経義釈目録』一巻、『菩提場所説一字頂輪王経略義釈』五巻、○『講演法華義』二巻、○『些々疑文』二巻、『顕密一如本仏義』(?)一巻等がある(○印は聖人閲覧の書)。
なお聖人は『授決円多羅義集唐決』上を一七歳のとき書写しているが、これは円珍の真撰ではない。
日蓮聖人は身延入山後は常に、円仁円珍二師は身を叡山に置きながら、心では天台伝教に背いて法華の山を密教化した元凶であり、その謗法の罪は法華を三重の劣と判じた空海より重いと批判した。
故に聖人円珍批判は円仁のときと大同小異であり、円珍批判は円仁批判の付随としてなされた。
それを学史の上から論評すれば、円仁学との相違点を明確にされなかった憾みがある。
島地大等も『台教学史』に「是を要するに円珍は既に円仁の思想を承用せるに外ならずして、まだ独特の教判観を有することなし」というように、大観すれば両師は同一思想なのではあるが、多少の違いはある。
一に円仁には空海の十住心教判や唐決の大日経方等部に対する反論がないが、円珍には『大日経指帰』がある。
二に円仁は法華に理秘密教の名を与えたが、法華を密教化しようとはしなかった。円珍は『講演法華儀』を撰して法華を密教化し、顕密一致のを一層具体化した。
三に円仁には円教部の著述もあるにはあるが、皆小冊子であり、学的価値も乏しい。
しかし円珍には密教関係の著作があると同時に『授決集』『法華論記』『普賢経記』などの純粋円教の作品もある。
しかもそこでは法華の超八醍醐性を強調し、殊に『授決集』の「徴他学決五二」では「真言禅門(略)若し法華華厳涅槃等経に望むれば是れ接引門」とすら論じているから『大日経指帰』の「法華尚及ばず」という類の密教最勝思想と矛盾することになる。
この円珍教学の特殊性に着眼した批判はまだ『撰時抄』にはなく『報恩抄』に初めて現れる。
ち右の矛盾について「自語相違」「思定めざりけるか」というのがそれであり『下山御消息』および『真言見聞』『真言宗私見聞』にも同様の批判がある。
《『智証大師全集』、『日本天台宗年表』、島地大等『天台教学史』、上杉文秀『日本天台史』、浅井円道『上古日本天台本門思想史』、『遺文辞典』歴史篇「円珍」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』二巻「円珍」の項
(浅井円道)

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