四恩
四恩
しおん
四種の恩のこと。
(1)『心地観経』に説く、父母の恩・一切衆生の恩・国王の恩・三宝の恩。
(2)『釈氏要覧』に説く、国王の恩・父母の恩・師友の恩・檀越の恩。
(3)日蓮聖人は『報恩抄』で、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩の四をあげる。
『開目抄』に「仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をほうずべし」(定五四四頁)と、仏道修行の者は、四恩を報ずべきことを教示する。
聖人の恩思想に強い影響を与えたのは、『心地観経』で、四恩はこの経の説を受け、伊豆流罪中、弘長二年(一二六二)に著されたのが『四恩抄』である。
『四恩抄』の四恩の順序のうち、「一切衆生の恩」と「父母の恩」とが入れ替わっているのは、流罪という法華経の行者の受難を契機に謗法者の迫害を一切衆生の恩と受けとめた意識的置き換えと考えられる。
聖人は『心地観経』の四恩説に依りつつ、その説くところは法華経の行者の主体的自覚的把握が示されている。
(一)一切衆生の恩=経には生々世々輪廻の中で父となり母となりした一切衆生の恩とす。
聖人は、衆生無辺誓願度の願を発す。
衆生済度の誓願、菩薩行実践の対象であり、その中で、悪人が難を加え、法華経の行者たらしめてくれる一切衆生の恩と受け取っている。
(二)父母の恩=この世に生を受け、養育された恩は、あらゆる倫理道徳が説く。
聖人も父母の大いなること、報恩の至誠が説かれる。
しかし、単に世俗的恩にとどまらず、「今生の父母を我を生みて法華経を信づる身となせり」(定二三八頁)と、自分を生み、そして正法の行者としてくれた感恩を述べられているのである。
その上「恩を棄て無為に入るは真実報恩の身なり」(定九二八頁)「法華経のかたきになりぬれば父母国主の事をも用ひざるが孝養」(定九一七頁)と、父母の恩に報いることは、恩を棄て出家の道を歩み導いて仏道を成ずることであるという。
(三)国王の恩=国王(主)の恩のほか、国土の恩、生国の恩もこの中に含めて聖人はとらえている。
賢王の治世や国土の恵みといった受動的恩観に終らず、「争か少分の怨に依ておろかに思い奉るべきや」(定二二八頁)といい、伊豆流罪が「只法華経を弘めんとする失」(定二三六頁)によって、法華経を行ずることが、経文を生きた実語として自己に実証することになった。
「国主こそ我身には恩深き人にをわしまし候らめ」(定二三七頁)という。
法華経の行者として主体的自覚のもとに、これを受けとめ、更に「生国の恩をほうぜん」(定一〇五五頁)とする積極的姿勢が、国主を賢王たらしめずにおかない三度の国家諫暁にみられる国恩観があったといえよう。
(四)三宝の恩=四恩の中で最も重視される。
「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる(略)この親と師と主との仰せをそむかんもの(略)不孝第一の者也」(定三二〇頁)と述べ、寿量品の教主釈尊の仏恩に背くことが不孝第一となし、法華経の重恩を謗ずる者があれば「不知恩の畜生」(定五六一頁)と断定する。
即ち、三宝への知恩が冒頭の「仏弟子は必ず四恩をしって」という三宝の恩に基礎づけられた衆生の恩・父母の恩・国王の恩であり、法華経の修行、不惜身命の弘通によってのみ真の四恩がまっとうされ、知恩報恩の利他行が実践できるとする。
《『遺文辞典』歴史篇「四恩」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「四恩」の項》