上行菩薩
上行菩薩
じょうぎょうぼさつ
法華経の涌出品において、仏の召換により、大地から涌出した本化の菩薩の代表者たる四大菩薩の筆頭をいう。
経文には「娑婆世界の三千大千の国土は、地、皆、震裂して、その中より、無量千万億の菩薩・摩訶薩ありて、同時に涌出せり。この諸の菩薩は、身、皆、金色にして、三十二相と無量の光明とあり。先きより、尽くこの娑婆世界の下、この界の虚空の中に在って住せしなり」とあり、大地より涌出したので「地涌の菩薩」とも称される。
この地涌の菩薩は「最もこれ上首の唱導の師なり」とあり、また「我は久遠よりこのかた、これ等の衆を教化せしなり」と涌出品に説かれているように、これらの菩薩は、久遠の昔から本仏釈尊の本弟子であり「本化の菩薩」とも称されている。
更に神力品において、これらの菩薩は如来の滅後、末法の世にこの法華経の要法を仏に代って弘めるべきことを付嘱されたのである。
従って「如来使」(法師品)とも「仏使」とも「遣使還告」(寿量品)ともいわれているのである。
日蓮聖人はこの四大菩薩の筆頭たる上行菩薩について、特に深い関心を持ち、末法の世に法華経を弘めるべき使命を持った仏使上行と、法華経を色読体験して、弘通に努めて来たわが身とを対比して、「六万恒沙の菩薩」ともいっている。
即ち、竜口法難を経て、佐渡に至り、『開目抄』を著して、自身が「法華経の行者」であるか否かを究明され「日蓮なくば此一偈の未来記(勧持品二十行の偈文)は妄語となりぬ」(定五五九頁)といい「日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん(略)経文に我が身普合せり」(定五六〇頁)と述べて法華経の行者たることの自覚を表明されたが、このことは即ち「仏使」としての「上行自覚」につながるものであり、聖人にとって「一期の大事」であった。
勧持品によれば仏の滅後、末法の世に法華経を弘める者は必ず三類の強敵に遭い、無智の者から悪口・罵詈され、刀杖瓦石で打たれたり、所を追われて数々擯出せられ、流罪や死罪に処せられるであろうとあるが、聖人はこの二十行の偈文に示された法難を、悉く色読体験されたことにより、勧持品に示された「我は是れ世尊の使い」として、末法における「仏使上行」の自覚に立たれたのであった。
聖人はもとより立教開宗の当初から、迫害必至の覚悟をしておられたのである。松葉谷の法難を始めとして、四度に及ぶ大法難と、数知れずの迫害に遭うことにより「経文に普合」した段階に至ったことを表明されたのである。即ち竜口から佐渡配流の直後、富木入道に宛た書簡の中で「一大事の秘法を此国に初て之を弘む。日蓮豈に其の人に非ずや」(定五一六頁)と述べ、更に「経に云く有四導師一名上行云云」とあって、上行としての確証をえられたことを明らかにされている。
『開目抄』で「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期ごとせん」(定六〇一頁)と述べているが、これは勧持品の「我は身命を愛せずして、ただ無上道のみを惜むなり」という経文の実践によって得られた言葉である。
更に「善に付け悪につけ法華経をすつる、地獄の業なるべし。本と願を立つ、日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の頸を刎ん、念仏申さずわ。なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし」(定六〇一頁)との決意に燃えた忍難弘経の行跡は、まさに仏使上行としての「生き方」そのものであったといえる。
かくして「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」(定六〇一頁)との本願成就に向って、本化上行としての意義付けを一層深いものとしていったのである。
即ち『開目抄』では「法華経の行者日蓮」を徹底的に究明し、経証と現証の上から「仏使上行の日蓮」へと論究されていったのである。
『下山御消息』によれば「地涌の大菩薩、末法の初に出現せさせ給ひて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序のため也。(略)今の時は世すでに上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり。而るに余愚眼を以てこれを見るに、先相すでにあらはれたる歟」(定一三一六頁)とあって、地涌の大菩薩は末法の初に出現して題目の五字を弘めるべきことを述べているが、日蓮聖人が世に出られた当時は「仏滅後二千二百二十余年」(定七二一頁)に相当しているので、まさしく「末法の初め」であり「上行菩薩御出現の時」であることが強調されている。
末法という時代は、仏が入滅されてからのち、二〇〇〇年を過ぎた時代をいうのであって、この末法という時代は濁世であり闘諍が盛んで、正法・像法の二時代に弘まった教えでは、もはや救うことのできない下根下機の多い時代である。仏は末法の劣機を救うために法華経の題目を特に本化の大菩薩に付嘱されたのであった。
従って末法濁世の劣機を真に救済することのできる教えは「妙法五字」であり、その導師は「上行」以外にないのである。日蓮聖人は末法の世に身をもって法華経の題目を弘めた者は、自身をおいて他にないことを自覚され「先相すでにあらはれたる歟」と記されたのである。
この点を『四条金吾殿御返事』によって見ると、諸難に遭った事について述べたあとで「若然らば日蓮法華経の法師なる事疑ひなき歟。則如来使にもにたるらん、行如来事をも行ずるになりなん。多宝塔中にして二仏竝坐の時、上行菩薩に譲り給ひし題目の五字を日蓮ほぼひろめ申すなり。此れ即上行菩薩の御使ひ歟」(定六三七頁)とあるごとくで、〈法華経の法師→如来使→上行菩薩→日蓮〉と次第してくるのである。
即ち霊山において多宝塔中の釈迦・多宝二仏竝坐の会座で、上行所伝の題目の五字を今末法の世に日蓮が、上行菩薩の御使いとして弘めているのであるというのである。
文中には「疑ひなき歟」とか、「御使ひ歟」という疑問形を用いているが、これはすでに心中において、上行の自覚を持っていたのであるが、表現上はあくまで疑問形を採られ、謙譲な態度で終始されている。
次に『観心本尊抄』によると、地涌千界の菩薩が、正法・像法の二時代に出現せず、末法の世に至って初めて出現する理由について、次のように述べている。
それによると正法一千年の間は小乗・権大乗の弘まるべき時であり、まだ法華経の弘まるべき「時」ではなく「機根」も法華の機根が存在しないからであるとしている。
また像法時代も同様であって、この正・像の二時代は華厳・阿含・方等・般若等の諸経及び法華経迹門が弘まり、機根を調熟せしめることができるが、しかし、末法に入ると、こうした諸経では、救済することはすでに不可能であつて、ただ法華経本門によつてのみ得脱をうることができるとするのである。
「今末法の初め(略)此の時、地涌の菩薩、始めて世に出現し、但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。謗ずるに因って悪道に堕せば、必ず因って益を得んとはこれなり。我が弟子これを惟へ」(定七一九頁)とあり、末法の重病の衆生には、色香共に秀れた良薬たる妙法によってのみ、救うことができる旨を詳しく解説している。
寿量品における「今留在此」の文は、まさにこの事であって、この是好良薬たる妙法を末代の顛倒せる狂子(衆生)に服せしめる仏使が、即ち地涌千界の菩薩であるというのである。
「我が弟子これを惟へ」と訓された点に重きを置いて考えなくてはならない。
前述のように聖人はすでに仏使上行としての自覚に立たれているので「良薬を服せしめる」ための「遣使還告」の労を惜しまず、不自惜身命の経文通りに精進してこられたのであるが「日蓮の弟子」たる者も「日蓮の如くに」本化としての自覚に立って「これを惟う」のでなくてはならない。つまり末輩師弟共に、地涌としての使命に生きることが、法華経行者に課せられた責務であるとの意味であるといえる。故に「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。(略)まさに知るべし此の四菩薩(上行等)折伏を現ずる時は、賢王となって愚王を誠責し、摂受を行ずる時は僧となって正法を弘持す」(定七一九頁)とある。
聖人は立教以来、随所に折伏を現じて、特に幕府を誠責すること三回、常に正法を弘持して、地涌千界の上首にふさわしい活躍をとげて来たのである。
このように本化上行としての道を進まれた聖人の門下も、共に末法に生れて唱題受持に励む身であってみれば、また「本化の一分」となり、自然に仏果を譲与されることができるとするのである。
即ち末法において闘諍堅固の世に、唱題受持する者は、男女をきらわず皆地涌の菩薩として、本化の一分であるという考えが成り立ってくるのである。
また『本尊抄』では先に『立正安国論』で予言された自界叛逆の難と他国侵逼の難が的中し、五濁の相を呈していることを挙げ「この時地涌千界出現して本門の釈尊の脇士となりて、一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。月支震旦未だこの本尊ましまさず」(定七二〇頁)と記されている。この時とは、末法の今時を指し、本門の釈尊とは久遠実成の本仏をいい、脇士とはその本仏の本弟子として付嘱を受け、末法の今時に仏勅を奉じて妙法を広布する本化上行等の大菩薩を意味するのである。
即ち一閻浮提第一の本尊たる久遠本仏に対し、上行等の地涌の菩薩が脇士となること、「本門寿量品の本尊、竝に四大菩薩」(定七一三頁)を尊重すべきことが述べられているのである。
これによってもわかる如く、本仏釈尊と上行菩薩は切り離して考えることのできない関係を持ち、特に末法の世にあっては「上行所伝」の妙法五字といわれるように、上行の意義は深く、聖人もこのことを『本尊抄』を始めとして、遺文の随所に述べられているのである。
そして上行菩薩と我が身をひきくらべ「さきがけ」とか「御使」または、「上行菩薩のかびをかをほりて法華経の題目をひろむる者」(定一〇八六頁)「化身」「再誕の人」「垂迹」等と記されている。
立教以来の法華経色読をふりかえり「経文日蓮が身に、あたかも符契のごとし」(定六〇二頁)という法華経行者の身の上に、仏使上行の姿を発見されるに至ったものである。
ここにまた上行と聖人とは切り離して考えることのできない意義が存するのである。
『四条金吾殿御返事』によると「多宝塔中にして二仏竝坐の時、上行菩薩に譲り給ひし題目の五字を日蓮ほぼひろめ申すなり。此れ即上行菩薩の御使歟」(定六三七頁)とあり、また『法華取要抄』には「日蓮は広略を捨て肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(定八一六頁)とあるように、釈尊の説かれた妙法五字は上行を経て日蓮が相承し、今の末法にこれを弘めるものであるという立場をとり〈釈尊→上行→日蓮〉という「内相承」を重くみているのである。
これは純粋に宗教的な立場からの相承であり、法華経の色読体験から「上行の御使いとしての日蓮」という自覚を次第に深めていったのである。
晩年に身延山で書かれた『右衛門太夫殿御返事』によると「当今は末法の始めの五百年に当りて候。かかる時刻に上行菩薩御出現あって、南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給ふべきよし経文分明なり」(定一七一九頁)とあり、末法の初めに上行菩薩が出現して、題目を弘めることを明らかにし、更に「日蓮は上行菩薩の御使にも似たり。此法門を弘むる故に。神力品に云く日月の光明のよく諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じてよく衆生の闇を滅す等云云。此経文に斯人行世間の五つの文字の中の人の文字をば誰とか思食す。上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり」とあって、聖人自身が「上行菩薩の御使」といい「再誕の人なるべし」とも述べている。
こうした点から聖人を「上行再誕」として仰ぐようにまでなっていった。
上行菩薩は本仏に対しては「脇士」であり「仏使」「如来使」「本弟子」であるが、末法の衆生にとっては「唱導師」であり「忍難弘経の大士」であり「遣使還告」の「本化の大菩薩」であって、聖人はこうした上行を純粋に宗教的実践を通して、自覚されていったのである。
『開目抄』の中で上行を中心とする地涌千界の大菩薩と他の菩薩を比較して「釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢・文殊等にもにるべくもなし。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集せる大菩薩、大日経等の金剛薩埵等の十六の大菩薩なんども、此の菩薩に対当すれば獼猴の群中に帝釈の来り給ふがごとし。山人に月卿等のまじわるにことならず」(定五七二頁)といい、更に「海人が皇帝に向ひ奉るがごとし」とも述べている。
聖人はかくして上行の自覚に立たれ『開目抄』や『本尊抄』において「大事の法門」を開顕され大曼茶羅を図顕(仏滅後二千二百二十余年未曽有の本尊)して、信仰の指標を示し、霊山往詣を示して死後の安心とし、かくて名実共に本化上行としての使命を達成されたのである。
《上田本昌「日蓮聖人における仏使の自覚」(『印度学仏教学研究』一七巻一号)、望月歓厚『日蓮聖人御遺文講義』第三巻、上田本昌「日蓮聖人の〈上行再誕〉について」(『棲神』四四号)、浅井円道「上行等の地涌の菩薩について」(『中世法華仏教の展開』)》(上田本昌)
【補記】前記の『開目抄』、『観心本尊抄』、『法華取要抄』、『高橋入道殿御返事』のほか、上行菩薩に関する真蹟遺文を掲げれば、『曽谷入道殿許御書』に「仏、上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したまふ故に、粗之を喩すか。而るに予、地涌の一分には非ざれども、兼ねて此事を知る。故に地涌の大士に前立ちて粗五字を示す」(定九一〇頁)、『撰時抄』に「上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて」(定一〇一七頁)、「上行菩薩の重ねて涌出せるか」(定一〇二九頁)、「上行菩薩の大地より出現し給ひたりし」(定一〇四八頁)、『報恩抄』に「上行等の四菩薩脇士となるべし」(定一二四八頁)、『下山御消息』に「今の時は世すでに上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり」(定一三一七頁)、『四条金吾殿御返事』に「上行菩薩貴辺の御身に入りかはらせ給へるか」(定一三六二頁)等とみえている。このほか保田妙本寺所蔵文永一一年一二月付の通称「万年救護本尊」には「上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」(『御本尊集』一六番)とある。これらによって『観心本尊抄』撰述後の聖人が、明確に上行自覚を表明されていたことが知られる。また近時確認された東京獅子吼会所蔵の真蹟四行断簡には「日秀・日弁させる僧にはあらねとん浄行一分也」(『日蓮仏教研究』二号二六八頁)とあるが、これは前記『四条金吾殿御返事』と同様に、門弟を上行菩薩になぞらえた例として注目される。
《『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と上行菩薩・法華経の行者」の項、『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇「上行菩薩」の項、『岩波仏教辞典』『図説仏教語大事典』「上行菩薩」の項》