性具説
性具説
しょうぐせつ
華厳教学の性起に対し、天台宗では性具を説く。
即ち華厳教学においては、一理隨縁して差別の法となり、隨縁せざれば即ち差別なしと説き、天台の円教においては、真如の理性に本来迷悟の諸法を具足していると述べて、これを理具の三千と名づけている。
天台教学に、真如隨縁・不変の考え方を初めて導入したのは六祖湛然(七一一-七二八)であり、この考え方が導入されることによって、天台教学は大きく変化した。
湛然が真如不変隨縁を説くところは、その著述の諸処に散見されるが、それをもっとも具体的に説き示したのは『金剛錍論』である。
即ち湛然は『金剛錍論』において、心仏衆生三無差別を解釈するのに、変と造と具を説き、これをもって四教を解釈しているが、源清(-九九六-)はこれを解釈して「具」を「同」に置き換ることをした。
このことは天台学系の流れをくむ源清が「具」を無視したことにもなるが、源清は実は華厳学系の宗密(七八〇-八三九)の影響を多分にうけており、宗密は華厳の澄観(七三八-八三九)の教えを受け、この両者共にきわめて実践的な華厳教学を説いたといわれる。
この両者がかかる華厳を説いたのは、禅の影響によるものとされているが、宗密は荷沢禅の基盤に立って、霊知不昧の一心に基づき教禅一致を唱え『起信論』の衆生心や、如来蔵一心と同じものである円覚妙心を説く『円覚経』などを注している。
源清は、その著『十不二門示珠指』に「一念清浄霊知」とか「自心清浄知体妙円覚性」とかのことばを出しているが、これは直接、華厳の影響を受けたことによると思われる。
そして源清は、この清浄霊知心を真如隨縁の真如の体として考えたのである。
この意味においては明らかに性起思想を天台教学に台頭せしめたことになろう。
源清が湛然の教学をかくの如く『起信論』の真如隨縁義に基づいて解釈しようとしたのは、ただ湛然の教学に真如隨縁が説かれていたからということだけでなく、その背後に強い影響力があったからである。
この源清の立場に反論を加えたのが後世、山家派と呼ばれた四明知礼(九六〇-一〇二八)である。
知礼は「隨縁」の用語を重視し、その著『十不二門指要鈔』には数多くこの「隨縁」の語を出してくる。
そのうちに「造謂体用とは、上の変と造とは、すなわち体を全くして用を起すことを指すなり、故に前の心具の色心によって隨縁して修中の色心を変造するなり。
乃ち性中の三千を以って体と為し、修起の三千を用となすなり。
すなわち、理体を全くして、事用を起すなり。
方にこれ円教の隨縁の義なり。
故に輔行に云く。
心造に二種あり、一には理に約す。
造は即ちこれ具なり。
二には事に約す、すなわち、事に約して乃ち三世の凡聖を変造することを明す。
すなわち結していわく。
皆理具によって、方に事用あるなり」と説いている段がある。
先に述べたごとく源清は具を同に置き換ることをしたが、知礼はここに性中の三千が隨縁して、修起の三千の用を起すとき、湛然の『輔行』の文を引いて、理具によって事用あることを示し、性具に立脚する円教隨縁義を主張している。
このように、源清と知礼とは極めて対照的に性起と性具の立場を表明しているように考えられるが、両者共に天台の学者であって、源清といえども決して華厳学系ではない。
そこで何故このようなことになったのかを再び思考するとき、その原因は、あくまでも湛然が真如不変隨縁の考え方を天台教学に導入したことに始まると思われる。
いくら源清であっても、この考えが湛然になければ、一理隨縁を主張することはなかったであろうし、決して性起的な思考を説くことはなかったであろう。
そこで湛然が何故この考え方を導入したかを考えねばならない。
周知の如く湛然は智顗教学の忠実な解釈家として知られ、智顗と湛然の間には何らの思想的変化は認められないとするのが従来の解釈であったが、実は智顗説かれていない真如隨縁不変説を智顗教学の解釈に利用していることの一事から考えてみても、そこに当然の変化が認められなくてはならないであろう。
さて湛然がこの思考を導入したのは、結論的にいえば、智顗教学に表れた三諦によってものの存在を規定して行こうとした、いわゆる三諦縁起ともいうべきものに、理論的な行き詰まりがあったからだといえる。
当時一方には理論的に勝れた華厳の教理論が隆盛を極めていたが、湛然は自己の天台教学をこれに比肩せしめるために、智顗の三諦縁起を合理的に解釈し、それを華厳の理論に対比せしめる必要に迫られた。
ここに華厳教学においても重視せられた『起信論』の考えを導入することになったものと思われる。
けれど真如隨縁不変の考えと、三諦縁起とでは、いずれにしても異質であり、前者に重きをおけば、どうしても源清の解釈の如くせねばすっきりせず、逆に後者に重きをおけば、天台の伝統は維持出来るように考えられるが、いずれにしても異質なものの合一であるから、その教理論自体、複雑化してしまう弊害はまぬがれないことになってしまう。
《安藤俊雄『天台性具思想論』、日比宣正『唐代天台学研究』、『遺文辞典』教学篇「性具」の項、『岩波仏教辞典』「性具説」の項》