澄観
澄観
ちょうかん
(七三七-八三八)
中国浙江省紹興府山陰県治の人。
姓は夏侯氏、字は大休という。
その伝記は、『宋高僧伝』巻五、『仏祖統紀』巻二九に出ずる。
生年は『仏祖統紀』の所説に従えば、開成三年一〇二歳で示寂したとあるから、それから逆算すると、開元二五年に生れたことになる。
『宋高僧伝』巻五には、「以元和年卒。春秋七十余」とある。
元和年間は八〇六年から八二〇年であるから、『仏祖統紀』の所説と相当の相違がある。
澄観は『仏祖統紀』には会稽の人とある。
そして『宋高僧伝』には、越州山陰の人とある。
しかし、会稽も越州山陰も、ともに浙江省紹興県に当る。
『宋高僧伝』によれば、澄観は、一一歳で宝林寺の霈禅師に従って出家し、一四歳で得度した。
『仏祖統紀』にも同じく一四歳で得度したとある。
『宋高僧伝』には、その後、澄観は乾元中(七五八-七六〇)に、潤州棲霞寺醴律師によって、相部律を学び、曇一によって南山律を研学、金陵の玄壁法師を詣で、三論を学び、三論を江表に盛んにした。
大暦年間(七六六-七七九)に入ってから、瓦棺寺において『起信』『涅槃』の講を開き、また淮南法蔵において『海東起信疏』の義を受け、また天竺寺法読詵の内に入って華厳大経を温習し、大暦七年(七七二)刻渓に至り、成都慧量法師に従い、三論を覆尋し、大暦一〇年蘇州において、湛然に従って『天台止観』『法華』『維摩』等の経疏を習ったと伝えられる。
この点は、『仏祖統紀』の所説と同じである。ただし『仏祖統紀』ではその従学の場所が不明である。
更に『宋高僧伝』によれば、澄観は、大暦一一年五台山に往詣した。そして専らその後は、大華厳寺に住して、方等懺法を行じた。そして興元元年(七八四)正月筆を起し、貞元三年(七八七)一二月に至る間に、『大方広仏華厳経疏』六〇巻を著した。
更に弟子僧叡のために『同経随疏演義鈔』四〇巻を作るなど、種々の面において活躍した。しかして、後世、澄観を華厳宗第四祖とする。
澄観の著作には、この他に『貞元新訳華厳経疏』一〇巻、『華厳経綱要』三巻、『華厳経略策』一巻、『入法界品十八問答』一巻、『法界観玄鏡』一巻等がある。
澄観は天台第六祖荊渓湛然より二七歳若年であると宇井伯寿は、その著『支那佛教史』に述べているが、牛頭の第六祖慧忠、牛頭第五祖法嗣、玄素の弟子径山道欽の禅を受け、荷沢神会の門下、五台山無名禅師に印可せられ、遂に華厳大経の玄旨を得んため、法詵に法をきいたという。
また他の伝によれば、慧雲に北宗禅をうけ、更に経伝子史より、悉曇・五明等に至るまで皆精通し、博学通ぜざるところなく、不空三蔵の訳場にも列したといわれる。
澄観が湛然に継学したことから、日蓮聖人は諸処で、澄観は天台宗の一念三千を盗んで自宗の骨目としたと、例記を挙げて批判された。
《『遺文辞典』歴史篇「澄観」の項、『岩波仏教辞典』「澄観」の項》