知礼
知礼
ちれい
(九六〇-一〇二八)
中国浙江者寧波府の人。
姓は金氏、字は約言、父は経、母は李氏。
宋太祖建隆元年に生れ、七歳のとき母を失い、遂に父に願って出家せんとし、太平興国寺洪選に師事し、一五歳のときに具足戒を受け、その後律を研究した。
太平興国四年(九七九)二〇歳のときに義通に従って、天台学を研究、三年ほどして義通に代って講義をするまでになった。
しかる後、端拱元年(九八八)に義通の遷化にあい、その後乾符寺に住すること四年、その後また至道元年(九九五)には保恩院に移り住す。
咸平六年(一〇〇三)に日本国僧寂昭が源信の『問目二十七條』をもち来り、これに答釈を作成す。
翌景徳元年(一〇〇四)、知礼は『十不二門指要鈔』を作り、別理隨縁説を主張した。このとき知礼は四五歳であった。
これはいわゆる趙宋天台の山家・山外論諍の一大項目となったものであるが、知礼がこれを主張した理由について、宋可度は、『指要鈔詳解』において、知礼以前、そして知礼と同時期の人々は、天台六祖湛然の意に暗く、ただ円教にのみ隨縁のあることを知って、天台の円を華厳の終教に同じようとしている。
けれどもただ我が知礼のみが、深く湛然の意を究めて、教門を中興し、特に別教にも隨縁の義のあることを証し、天台の円教を華厳の終教に同ずることに反対したと述べている。
けだし知礼が『指要鈔』にこの学説を発表したとき、即ち、一〇〇四年か、それ以前に、既に天台の円教を華厳の終教に同じようとした考えがあったということには、疑義がある。
何故ならば『指要鈔』に知礼はこのような理由で別理隨縁を主張していないし、また知礼が『指要鈔』に対破せんとした源清の教学にも認められないからである。
更に華厳学派で天台の円教と華厳の終教を関係づけたのは、宋天聖八年(一〇三〇)に『大乗起信論筆削記』を著した子璿(-一〇三八)が初めてであると考えられることから、恐らくは、このような理由で知礼が別理随縁を主張したのではないと思える。
だが、知礼のこの著述の作成を契機として、論諍が拡大される。
趙宋天台論諍の発端は咸平年中に、銭塘の晤恩が『発揮記』を作って『天台金光明玄義』略本の文を解して、広本の観心釈をもって後人の加筆となし、その門人・源清、洪敏がまた『難辞二十條』を著し、これに反論したことにある。
その後、山外派を相手としての知礼の論難往復にははげしいものがあった。
天禧四年、法智大師の号を賜わり、同五年、勅により法華懺法を修して国のために福を祈った。
その後、放生池碑を作るなどし、天聖六年に寂した。
寿六九歳。
中国天台宗第一七祖に数えられる。
著作きわめて多く『金光明経文句記』、『観無量寿経疏妙宗鈔』各六巻、『観音玄疏記』四巻、『十義書』、『解謗書』各三巻、『十不二門指要鈔』等がある。
門下甚だ盛んであったという。
《『遺文辞典』歴史篇「知礼」の項、『岩波仏教辞典』「知礼」の項》