禁制不受不施派
禁制不受不施派
きんぜいふじゅふせは
日蓮宗の行軌、信条である不受不施義宗制の形成の跡を見ると聖人滅後、教団の構成員は概ね武士、商工業者、農民の一般庶民が多かったが、京都を中心とする関西方面に教団を開拓した宗門には、南北朝・室町期に入るや漸次幕府要人や公卿等公武の顕官縉紳の入信者ないし宗門に接近する人々が増してきた。
これらの人々は宗門には今までになかった階層で、宗門の弘通宣伝の援助者ないし上層権門への仲介者として有力な存在となったから、たとえ未信者であっても宗門に好意をよせる人や、また信徒となって宗制にたがう行為を犯してもこれを直ちに謗法者・謗法行為としりぞけず特別の存在として扱い不受不施制の対象からはずしたのである。
これを「王侯除外の不受不施」「公武除外の不受不施」と称するが、室町期の中ごろに及んで日蓮教団が確立するや、宗義の正統、化儀の厳正が反省され、教権と俗権の軽重が同時に論じられ、不受不施義においても公武大官も庶民も同等であって謗施不受に特別な除外制を認めるべきでないとする不受不施本来の立場が確認され王侯除外制を脱却して、これが教団を支配するのである。
さて天文五年(一五三六)七月、いわゆる天文法難ののち同一一年京都還住を許された日蓮宗は復興、再起に懸命の努力を計りようやく旧観に返ったと見られる頃、天正七年(一五七九)織田信長によって計画された浄土宗との対論安土宗論で謀略のため敗北せしめられ日蓮宗は京都近辺における宗教活動を禁ずる逼塞の命を蒙むり諸宗に嘲笑せられるに至った。
同一〇年五月信長が本能寺で殺されるや、豊臣秀吉は天下を制したが同一二年、安土宗論は不当であるとの裁断を下して信長の判決を取消したが、それにもかかわらず宗門に与えた影響は甚大で、安土宗論以来関西の指導者長老たちは従来の強義折伏態度を改め、寛容摂受の宗風を醸成せしむるに至った。
あたかも文禄四年(一五九五)九月、豊臣秀吉の催した千僧供養会に日蓮宗も招請されたが、他宗の信者である秀吉の供養会に出仕することは不受不施の宗制に背くから出仕すべきでないと厳正な宗制を堅持して不出仕を主張する妙覚寺日奥に対し、天下の実権者である秀吉の命にそむいて不出仕を唱えれば宗門の命脈に関する大事をもたらすかも知れぬ、国主除外の宗制は先例のあるところ、国主たる秀吉の供養は受けて差支えないと摂受的な受不施義を主張する京都長老派の代表本満寺日重と対立した。
秀吉は両者に対し黙認の態度をとったが、秀吉の死後徳川家康が政権を握るや日奥の不出仕は公命違背の大罪であると決し慶長五年(一六〇〇)対馬に配流せられ、これによって宗門の大勢は再び王侯除外制に引き戻された。
しかし草創期の不安定を自覚している幕府は必ずしも日蓮宗を統制下に入れようとせず、二派を存立抗争せしめていたが、万治・寛文(一六六〇)頃幕府機構の確立と共に全国寺社の朱印地を調査し改めて朱印を下付することとし、これによって仏教各宗を完全支配せんとしたのである。
幕府はこの時、朱印を下すに際しこれは徳川家の武運長久を祈り、かつ先祖の菩提、追善を修するために施与するものであることを明示し、朱印を受領するには供養の為に受けるという手形を出せと命じた。
かくして従来、不受不施を立てた諸寺は一は手形をすることを拒んで寺領朱印を抛棄し、一は悲田供養の名にかくれて朱印を受領した。
幕府は悲田供養として受けたものを「書き物をした不受不施派」と号してその存在を認めたが不受不施をあくまでたてて手形することを拒んだ寺院に対しては寺請けを禁じた。
寺請けを禁ぜられると、その寺も、その寺の檀家も戸籍の登録を止められ無宿にならざるを得ないから、一般の不受不施信者たちは表向きは受不施の日蓮宗、あるいは禅宗・天台宗の檀家等となって判を押し、内心に不受不施信仰を持続した。
このように仮に信心の者を内信といった。
僧もまた出寺して一所不住、無宿となり法義を守るものと、受不施となって寺に住し内心に不受を立てる者もあった。
先の出寺僧は法中(ほつちゆう)といい、後者は内信僧、寺を内信寺といった。
信者の中でも強信の者は戸籍をぬいて無宿となり内心、外相共に清浄の身となって出寺僧に随がい内信者を指導したが、こられを清派・清者・法立(ほうりゆう)等といい、内信者は内心は清浄であっても外相は他宗、謗法者であるから濁派・濁者などといった。
ところで法中への供養は法立・内信がするのであるが、内信は外相は他宗・謗法者であるからその供養は謗供となり従って法中へ供施することができない。
そこでこの施を法立にわたし、法立はこれを自身のものとし、自分が施主となって法中に捧げる、このような手続きを経て内信の供物は法中に渡されたのである。
法立は供物の仲介者であるが、法中への供養をすることのできる資格をもつものであるから、これを施主・施主代(せしゆだて)といい内信者を五名ないし二〇名ばかりの一群の講中に組織し、数箇の講を指導した。
このようにして〈法中-施主-内信〉と継がる組織が自然に結成され、幕府探索の目から逃れて秘密教団を作り上げたのである。
これを不受不施派、幕府禁制下にその教団を形成したから禁制不受不施派といった。
不受不施派は禁制以来二〇〇余年の弾圧、迫害をしのびつつ宗命を相続し、その間、日指派(堯了派)と津寺派(講門派)の二派に分かれたが、明治九年(一八七八)四月、堯了派の釈日正は不受不施再興を訴願して許可され日蓮宗不受不施派を公称、同一五年三月講門派釈日心は同不受不施講門派の独立許可を得たのである。
《影山堯雄『日蓮宗不受不施派の研究』、宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、『国史大辞典』一二巻「不受不施派」の項》