天文法難
天文法難
てんもんほうなん
天文の法華乱または法華一揆、天文法乱ともいう。
松本問答を端緒として一段と叡山との対立を深め、山門およびこれに加担する諸勢力と日蓮宗との対決となり、結局京都の本宗寺院は焼打ちにあって堺に敗退した争乱をいう。
鎌倉時代末期日像の布教以降、漸く京都に地盤を築いた日蓮宗は、その後公武貴紳に接近し着々と伝道弘法の実を挙げると共に、洛中洛外の富豪・武家層などに信徒を確保し教線を拡張していった。
新興教団としての一向宗や本宗に対する度重なる山門の脅迫や迫害は、足利政権の衰退とその消長にも敏感な反映を示している。
殊に応仁の乱(一四六七-七七)は都市を舞台として諸国の大名・豪族などによって灰燼に帰し、戦禍は畿内から全国的に拡大し諸国における群雄の覇権争いや一揆の横行など、世を挙げて下剋上の社会様相を現出した。
民衆仏教としての一向宗・日蓮宗はこの乱世に寄与するところ大きく、宗門は折伏と諫暁活動によって公武・庶民の間に教線を拡大し、貴賎男女の間に多大の信徒を獲得し、京都における寺院建立も次第に範囲を拡げ多数の寺院を造立していった。
この頃本宗が公卿を頼って公武の間に進出した事例として妙本寺月明は三条家、立本寺日実が裏辻家、妙蓮寺日応が庭田家から出家しており、この他近衛房嗣、前相国政家、花山院政長なども宗門に帰依している。
全国的にも当時伝道僧に帰依する信者・豪族の外護により、あるいは各地群雄の政策上の保護などによって本宗は諸地域においてかなり発展し隆盛の一途を辿った。
こうして京都を中心に全国的に信者の急増と発展をもたらしたが、山徒の圧迫には厳しいものがあり自らの力でこれに対処する必要を生じさせた。
折伏活動に伴う種々の迫害・弾圧は日蓮聖人以来常にこれを甘受しており、これに対して武力・暴力をもって抗することなく宗命を継承してきた宗門も、そうした社会情勢のなかでは必然的に寺門の経営・維持が重要な課題となり、そこに自衛の必要性を生じさせた。
即ち応仁・文明の乱後の社会的不安と動揺は自衛手段を不可欠の要素とした。
日蓮宗門にみる武装化の萠芽は寛正六年(一四六五)一二月、叡山が京都の日蓮宗を破却し洛外に追放を計った際に洛中の本宗僧俗が団結し防衛態勢をとった時、幕府が洛中擾乱を懸念して兵を動かし事なきを得たが、日蓮宗徒はこれを機縁として力の結集・武装の自覚を得たものといえる。
以来各門家本寺は武備を強固にしたが、このため武将に利用されたこともある。
こうして自衛の必要から武装の増強はやがて戦乱に突入するに至り、この宗団武装の要務もまた教義的裏付けを必要とし、その肯定がなされるまでに至った。
まさに戦国乱世の動揺する社会に宗門の護持発展を目指し、自衛の必要から武備の増強を図り、遂に法華一揆を形成させるに至ったのである。
一向一揆と共に評して宗教戦争の名において武名と悪名を高めたといわれるが、ジェスイットの戦闘的修道会にもみるように伝道弘布と宗門の護持発展のためには、この頃の社会事情と併せ考察するとむしろ当然のなりゆきとして理解され、必ずしもこれをもって宗教的堕落という悪名は冠せられない。
大永・享禄(一五三〇)頃は各地に一揆が蜂起し、京都では将軍義晴を擁する細川高国など諸将と前将軍義澄の子義維を支持する細川晴元など諸将の間の争いがあり、法華一揆・一向一揆もこれに参加して未曽有の乱世となった。
別に叡山・三井、根来、興福寺など古くから僧兵を擁し強大な勢力を有しており、特に叡山は本宗の発展・公武への接近などをこころよしとせず、松本問答を契機として遂に天文五年(一五三六)七月二三日戦火を開いた。
この際叡山、三井の総力に加えて越前平泉寺、日光山や奈良興福寺、紛河寺、根来寺の参加もあり、六角義賢、三雲・蒲生の近江衆など一団となって日蓮宗側二-三万に対処して、少なくとも二-三倍以上の兵力をもって対戦したという。
これは二二日から二七日に亘る争乱で二一ヵ寺の宗門本山は悉く陥落炎上し、この戦火のため三条以南の下京全域、上京の三分の一が焼失し、妙覚寺日兆の切腹など多大の生命・財産を失う大災厄をもたらした。
これを天文法難、天文の法華乱という。
この争乱は日蓮宗側から戦端が開かれ叡山と互角に戦うところへ六角の率いる近江衆が加勢し、四条口から洛内に攻め入って町中に放火したことから法華一揆は敗退する結果となった。
かつて法華一揆と共に一向一揆を追撃し、土一揆の本拠を襲撃した畿内の大小名が今度は叡山を盟主とする旧仏教側に加担したこと、また以前叡山の宗教的権威を汚すものとして糾弾されその坊舎を破壊されたこともある本願寺が、法華一揆壊滅の費用として銭三万疋をこれに拠出していることには注目の要がある。
これらのことから天文法難は法華一揆が敗退したという以上に、戦国時代の社会的混乱とその統一への過程の上に深刻な意義をもっていることが考察されなければならない。
この敗戦によって日蓮宗諸寺院・僧俗は難を逃れ各自に寺宝など携えて、堺の末寺ないし緑故の寺へ避難した。
ここではその初め諸寺共に京都還住を断念し、本寺を堺に移転して教団の拠点とするよう計画し、教学の研修と地方伝道への準備がなされていた。
しかし漸次勢力復興の兆しのうちに還住を計るようになると、日々千巻陀羅尼を読誦し、その促進を祈願した。
一方、京都では山徒が頻りに日蓮宗徒を探索し、幕府も天文五年閏一〇月禁令三ヵ条を布告して圧力を加えた。
『本能寺文書』によれば日蓮宗徒の京内外の徘徊を禁じ、還俗し、あるいは他宗に紛れ、または隠匿する者は処罰、諸寺の再興は禁止するという徹底した禁圧をしている。
乱後の京都は武力を所持しない町衆による目覚ましい復興があったが、この頃天変地異、洪水、疫病の流行、飢饉の続発する社会不安の増大があり、この際公武有力者への京都還住の働きかけや各派諸師の出自やその徳行による帰依者の続出、更に近衛、花山院、九条、鷹司などの従来からの有力者の協力があるなどの諸事情を通じて、ともかくも天文一一年一一月一四日法難後六年目に帰洛の勅許を得ている。
堺成就寺に避難した本国寺日助は帰洛し草庵を結んで勧化し、天文一六年二月洛内一五ヵ寺連署の上、叡山徒に対し平常・法事に身分による着衣を守り、僧俗共に諸宗を誹謗せず、日吉祭礼をうけ、その用途千貫文を進納するなどの申し合せ書を提出し、佐々木定頼の添状によって山門の承諾を得て順次帰洛再興した。
しかし二十一箇本山のうち帰洛復興したのは一六ヵ寺(実質一五ヵ寺)である。
そこには乱後着々として準備した僧侶の努力もさることながら、乱後早急にたち上った町衆の底力を見失ってはならない。
こうして諸山は鋭意法難後の経営に尽力しているが昔日の勢威に復するには容易でなかった。
しかし新しい町造りに専念した町衆と共に洛中の日蓮宗も彼らの生活意識に根ざした民衆仏教として再び活躍する機運を到来させていった。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同「天文法難京都法華宗の災厄」『日蓮宗の人びと』、同「天文法難後の京都」『続・日蓮宗の人びと』、、影山堯雄『日蓮教団史概説』、辻善之助『日本仏教史』中世篇之四、昇塚清研「天文法乱について」『大崎学報』六九号、岩崎小弥太「天文法華乱」『歴史と地理』二一の六、今谷明『天文法華の乱』、河内将芳『日蓮宗と戦国京都』、『日蓮辞典』「天文法難」の項、『岩波仏教辞典』「天文法華の乱」の項、『国史大辞典』九巻「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)」の項》
(妹尾啓司)