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一向一揆

いっこういっき #32

一向一揆

いっこういっき

京都で日蓮宗が繁栄していた室町時代に、真宗本願寺の八代法主に就任したのが蓮如(一四一五-九九)である。
蓮如はやがて比叡山の圧迫を受けて京都を去り、近江(滋賀県)を経て北陸に赴き、越前(福井県)の吉崎に居を定めた。 ここを中心に布数を始めた蓮如のもとには、数多くの農民たちが集まり、蓮如のえはまたたくに北陸一帯に広がったのである。 すべての人を同朋・同行として阿弥陀仏への帰依を説く蓮如の教えは、農民たちを勇気づけ、各地に自分たちの信仰集団たる「」を形成した。 この信仰組織が次第に力を貯えるようになり、遂に領主に対して武力をもって立ち上るようになった。 これが一向一揆である。
一向一揆の武力は強く、長享二年(一四八八)には加賀(石川県)の守護の富樫政親を敗死させたほどである。 この一揆は更に各地へ広がり、北陸を去った蓮如が山科(京都市)に創建した本願寺(山科本願寺)を中心に、近畿地方でも大きな実力を持つに至った。
ちょうどその頃、京都の日蓮宗は外からの攻撃に備えるために武装を整えて、法華一揆と称していたから、一向一揆法華一揆の対立は、避けられない情勢になったのである。 文元年(一五三二)、本願寺法主証如との対立関係を深めていた細川晴元は、一向宗と日蓮宗のこのような対立を見逃すことなく、法華一揆の武装蜂起をうながした。 その年の八月二三日には法華一揆が細川・六角軍と共に山科本願寺に向かい、その翌日には火を放って攻め落としてしまった。
この後、石山の地(今の大阪城)に本願寺が移ると、一向一揆はここを中心に巨大な勢力を貯え、戦大名と対抗しても決っして劣らないほどになった。 むしろ本願寺の法主が戦大名と同じ格を持つようになり、争乱の世の中を巧みに操っていった。 ところが織田信長の強力な追討作戦によって次第に勢力を失い、正八年(一五八〇)に本願寺一一世法主教如が、信長と和を結んで石山を退去することによって、一五〇年余に及んだ一向一揆の歴史は閉じられたのである。
一向一揆法華一揆と共に、中世の宗教一揆として著名である。
《『岩波教辞典』『国史大辞典』一巻「一向一揆」の項、『日本仏人名辞典』「蓮如」の項》

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