妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

法華一揆

ほっけいっき #3821

法華一揆

ほっけいっき

文元年(一五三二)から同五年に京都の日蓮宗徒を中心とした町衆が、一向一揆等の乱入から京都を自衛するために起した一揆をいう。
一向一揆に対して名づけられたもの。
京都の富裕な土倉衆を中心に商・手工者らの町衆によって支えられた京都日蓮教団は、一揆勃発の天文元年には「京都に日蓮宗繁昌して、毎月二ヵ寺三ヵ寺宛、寺院出来し、京中大方題目の巷」といわれる最盛期を迎えていた。
その中心は日蓮宗二十一箇本寺で、町衆を始めとする洛中住民の支配的地位を占めていた。
こうした諸寺院や町衆は応仁の乱(一四六七)後の打ち続く戦乱や、乱入する土一揆等の社会情勢の不安に対して、下京の町衆は「下京衆」「上京衆」とよばれる町衆兵団を編成し、自らの手で京都の町を防衛すべく、その武装化を強めていった。
文元年六月、細川晴元はその部将である日蓮宗信奉者の三好元長と不和になり、一向一揆の支援をうけて元長を堺に倒した。
しかし元長を倒したあとの一向一揆は畿内に拡大し、都市や農村を席捲した。
摂津・河内・和泉の門徒で構成された一向一揆は約一〇万といわれ、七月一七日には奈良へ乱入して興福寺を始めとする寺院・町屋を焼失せしめ、八月初めには三好元長との戦いに支援した堺の細川晴元をも攻めて堺に乱入した。
こうした一向一揆に対し、七月二八日、日蓮宗徒を中心とした町衆は、京都自衛のため二十一箇本寺を拠点として、武力をもって一斉に蜂起した。
法華一揆の始まりである。
八月初旬、東山で始まった両者の衝突で本願寺勢を大敗させた法華一揆は、一九日には南方から摂津門徒をも破り、八月下旬にはこの勝利に乗じて、一向一揆の本拠である山科本願寺を攻め落した。
しかし文二年になっても摂津・河内・和泉・山城の一向一拠揆の勢力はおとろえず、これらの一向一揆と戦うために町衆たちは法華一揆に結集し、たびたび京都から出陣した。
かくて一向一揆から京都の町を守りぬいた町衆は、有力な町衆信徒を中心とする指導組織のもとに、年貢・地子銭の免除や半済、また町々の検断権を掌握して町衆による自治権を拡大していった。
しかし法華一揆の強大な武力と勢いにまかせて他人の所領を押領するごとき横暴な振舞いは、世間の非難となり、また京都日蓮教団の繁栄を憎む比叡山は、しばしば圧力を加え、その勢力を排除しようとしていた。
そして、こうした二十一箇本寺を中心とする京都日蓮教団を壊滅的な状況に追い込むのが、やがて起る天文五年七月の天文法難である。
《『京都の歴史』三巻、『日蓮信仰の歴史』(『講座日蓮』三巻)、宮崎英修「法華一揆」『日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』「法華一揆」の項、『史大辞典』九巻「文法華の乱(てんぶんほっけのらん)」の項

リンク

← 事典トップ