罰
罰
ばち
法華経および法華経の行者をそしることより受ける応報・咎のことをいう。
日蓮聖人は『種種御振舞御書』に、「今の世の人々は去正嘉の大地震、文永の大彗星に皆頭われて候なり。
(略)これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰(略)」(定九八五頁)とされている。
また『日女御前御返事』(定一五一三頁)、『聖人御難事』(定一六七三頁)等において、罰には総罰・別罰・冥罰・顕罰の四つがあるとされている。
これらのうち、総罰とは時代的にか、または社会的・国家的にか、いわゆる集団全体として受ける応報・咎をいう。
即ち、『日女御前御返事』に、「聖人をあだめば総罰一国にわたる。
又四天下、又六欲・四禅にわたる」(定一五一三頁)とされ、『聖人御難事』に「日本国の大疫病と大けかち(飢渇)とどしうち(同士討)と他国よりせめらるゝは惣ばち(罰)なり。
やくびやう(疫病)は冥罰なり」(定一六七三頁)と示されている。
国家の理念として、為政者が正法を用いず誹謗することにより、国民一同が苦しむことなどがそれである。
別罰は総罰が総体的であるのに対して、個々に受ける応報・咎をさしていう。
その密度は濃く強大である。
聖人は『聖人御難事』(定一六七三頁)にて、太田親昌・長崎次郎・大進房らの落馬を例証として、これは法華経の罰の現れたもので別罰であるとされている。
冥罰とは顕著に現れることなく、冥々のうちに受ける応報・咎である。
伝染病などがそれで、最初それと気付かぬうちは国家的損害とまでいかないが、次第に流行し死者が増してきて、気づいた時には国内は困乱し手のつけようがない程になってしまうようなものである。
このように冥罰は、容易に気付かないだけに圧倒的な力がある。
顕罰は即座に極めて顕著に現れる応報・咎である。
太田親昌らの落馬はまた顕罰であるとされる。
顕罰・冥罰の二つはそれぞれ総罰・別罰の二義にわたるもので、総罰の受け方に顕・冥の二つがあり、別罰にまた二つあることになる。
いずれの罰にしても、その原因は法華経を誹謗することによるもので、一心に懺悔する以外に、逃がれることはできない。
《『遺文辞典』教学篇「罰」の項》