妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

ばち #4488

ばち

法華経および法華経の行者をそしることより受ける応報・咎のことをいう。
日蓮聖人は『種種御振舞御書』に、「今の世の人々は去正嘉の大地震、文永の大彗星に皆頭われて候なり。
(略)これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし(略)」(定九八五頁)とされている。
また『日女御前御返』(定一五一三頁)、『聖人御難事』(定一六七三頁)等において、罰には総罰・別罰・冥・顕の四つがあるとされている。
これらのうち、総とは代的にか、または社会的・的にか、いわゆる集団全体として受ける応報・咎をいう。
ち、『日女御前御返』に、「聖人をあだめば総罰一にわたる。
又四下、又六欲・四禅にわたる」(定一五一三頁)とされ、『聖人御難事』に「日本国の大疫病と大けかち(飢渇)とどしうち(同士討)と他よりせめらるゝは惣ばち()なり。
やくびやう(疫病)は冥なり」(定一六七三頁)と示されている。
家の理念として、為政者が正法を用いず誹謗することにより、民一同が苦しむことなどがそれである。
は総が総体的であるのに対して、個々に受ける応報・咎をさしていう。
その密は濃く強大である。
聖人は『聖人御難』(定一六七三頁)にて、太田親昌・長崎次郎・大進房らの落馬を例証として、これは法華経のの現れたもので別であるとされている。
とは顕著に現れることなく、冥々のうちに受ける応報・咎である。
伝染病などがそれで、最初それと気付かぬうちは家的損害とまでいかないが、次第に流行し死者が増してきて、気づいた時には内は困乱し手のつけようがない程になってしまうようなものである。
このように冥は、容易に気付かないだけに圧倒的な力がある。
座に極めて顕著に現れる応報・咎である。
太田親昌らの落馬はまた顕であるとされる。
・冥の二つはそれぞれ総罰・別罰の二義にわたるもので、総の受け方に顕・冥の二つがあり、別にまた二つあることになる。
いずれのにしても、その原因は法華経を誹謗することによるもので、一心に懺悔する以外に、逃がれることはできない。
《『遺文辞典』学篇「」の項》

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