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教誨

きょうかい #2334

教誨

きょうかい

監獄法第二九条には「受刑者には教誨を施す可し其他在監者教誨を請ふときは之を許すことを得」と規定しているが、教誨の教は「おしえる」「さとす」「にみちびく」であり、誨は「言いきかす」語意が強い。
教誨は、在監者、特に受刑者の徳性を涵養する教化活動であるが、宗教教誨、一般教誨に、一応分けることができる。
一般教誨は倫理的、教育的、社会的な教養を内容として、受刑者に対して、その改善改心を促がす善化作用であって、学識経験者や矯正職員によって行われるものであるが、宗教教誨は信の自由の原則から、これを強制することはできない。
従って宗教教誨は、原則としては受刑者の希望を前提として行わるべきものとなっている。
日本における宗教教誨の歴史は奈良朝聖武皇神亀二年(七二五)の詔勅並びに嵯峨皇弘仁九年(八一八)の宣旨より平安末期の保元・平治の乱にいたるまで約三四七年は、死刑が廃止されたという史実にその発祥を見ることができる。 囚人に対する恩赦の詔勅も出されている。
また江戸代に入っても、監獄教誨として組織的なものではないが、石川島人足寄場において、心学話が行われていたと伝えられている。
明治に入って、明治五年(一八七二)一一月、わが最初の監獄立法をみた。 いわゆる監獄則では仁愛精神により、囚人を化改することを明らかにしている。
勿論、教誨制度の確立を見るに至ったわけではないが、真宗大谷派の僧侶仰月寺対岳(福井県)は、自ら囚徒の教誨を請願し明治五年八月正式に認可された。
また名古屋の真宗大谷派鵜飼啓潭も同年七月認可されている。 これがわが教誨の濫觴とされている。
明治一四年(一八八一)三月、司獄官吏及び傭人設置制並びに傭人分課例が制定され、法文上、初めて教誨師の名称が生れた。
すなわち、傭人設置制教誨師、人員俸給適宣」、傭人分課例「教誨師改過遷善の道を講説して囚徒を教誨す」、監獄則第九二条「己決囚及懲役人教誨のため、教誨師をして改過遷善の道を講ぜしむ」、監獄則第九三条「教誨は免日又は日曜日の午後において其説を開くものとす」などの法規が制定されたのである。 ここに漸く矯正の教誨が確立されたのである。
明治・大正・昭和初期にわたる永い東西両本願寺の教誨活動は特筆すべきであろう。 両本願寺は地方庁から常駐教誨師派遣の要請があれば、これに応えて積極的に教誨師を派遣し、その要請に協力し、その進出は顕著であった。
宗教教誨は第二次世界大戦終戦前までは主として東西本願寺所属の教誨師(官制)で占められていたが、ボツダム宣言受諾により、宗教教誨の解放が行われ、あげて民間宗教家の手に委ねられることとなり、官制の教誨は昭和二二年(一九四七)四月一日から廃止された。
かくて宗教教誨は昭和二三年に矯正局長通達をもって、宗教連盟の推薦を経て、民間宗教を招いて収容者の希望に応じて行うこととなった。
こうして民宗教家の教誨活動は次第に活発化し、昭和三一年、全国宗教教誨師連盟が発足、同三七年一月、財団法人全国教誨師連盟に発展し、今日、全国教誨師の数は一五〇〇名を超えるに至ったのである。
明治六年(一八七三)、千葉監獄創設当、囚徒遷のために布教の道を開くことを企画した仏教寺院住職有志は、広く県下各宗寺院僧侶の協力応援を求めた。
日蓮宗関係では新居日薩日蓮宗を代表し、重要な一人として百方奔走に努力し、千葉県刑治掛に請願し数次協議交渉を重ね、その承認を得、住職が個人有志として監獄に出張し、初めて獄内で説教を開始するに至ったとされている。
現在、日蓮宗は昭和四一年(一九六六)以来全国の刑務所、少年院等の教誨師により日蓮宗教誨師会を組織し、昭和五四年現在七二名に及び、管区の教誨師大会、全大会などの会を活用し、その研修交流を深めている。
さて教誨は、その一〇〇年の歴史を回顧する時、先覚者の方々が身を挺して収容者の教化遷善に当り、宗教情操の涵養に努められ、その更生に力を注いだ幾多の功績に対して、深い敬意を表せざるを得ない。 「仏陀の愛は禽(きん)獣草木にまでも及んでいる」(西田幾太郎)。
教誨師は神仏の愛と慈悲の光を暗い収容者の心え運ぶ使命に生きているのである。
教誨百年編纂委員会『教誨百年』上下、第一一回全国教誨師大会『教誨必携』》

【補記】上記は昭和五六年発行『日蓮宗典』掲載の内容である。

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