寛文の惣滅
寛文の惣滅
かんぶんのそうめつ
寛文年度の不受派弾圧によって、不受義を奉ずる僧俗が壊滅したことをいう。
寛永七年(一六三〇)江戸城内における身池対論で池上日樹らの流刑追放を機に、不受不施弾圧は本格的に始められ、受派の身延が教団の実権を掌握するに至ったのである。
そして受派の身延は不受派撲滅のために、引続き連訴していくのである。
寛文五年(一六六五)三月一日、幕府が寺社領朱印地の実態を把握するための調査をし、御朱印を再交付した際、受派側は、寺領は幕府から供養として受けるべきであるはずなのに、不受を主張する者は「地子・地領は御供養に非ず、ただ仁恩を以て下しおかれ候」と解釈しているのは甚だ矛盾しているとして非難した。
そのような者どもには罪過仰せ付け下さるようにと幕府に具申し、身延日奠は寺社奉行・老中に対し猛運動を行ったのである。
丁度、家康の五十回忌に相当する年のことであった。
同年七月末、幕府は本迹勝劣を主張する諸寺と不受派の三本寺を通じて「今般御朱印頂戴仕り候儀、御供養と奉存候。
不受不施の意得とは各別に御座候」という手形を出し、御朱印を頂戴せよと申渡したのである。
そして勝劣派の諸寺は寺社奉行に出頭して簡単に手形を提出してしまった(一部の寺院は拒否するが、そのため流罪となっている)。
これに対し不受派では、小湊誕生寺日明、平賀本土寺日述、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺日純、野呂談林日講、玉造談林日浣らが中心となって対策を練り、「供養」の二字を除かれるようにと愁訴したが、勿論聞き入れられるはずもなかった。
そこで碑文谷日禅、谷中日純、小湊日明らは手形を書いて不受不施義を立てようと考えた。
受派が三宝への御供養として地子・地領を受けた(敬田供養)のに対し、日禅らは「慈悲供養」として敬田供養という意味でなく地子・地領を受けようとして、手形の文章を若干変えることで一一月二三日手形を提出したのである。
故に、これを一般に悲田派、悲田不受不施派と呼ぶのであるが、平賀日述・興津日堯・雑司谷日了・大野日完・野呂日講・玉造日浣らは、日禅らの悲田として受けた陋劣な態度を横目に見て、手形の提出を断ったのである。
その結果、一二月三日、寺社奉行に呼び出しを受け、それぞれ流罪の宣告を受けたのである。
即ち、平賀日述・大野法蓮寺日完は伊予吉田へ、興津妙覚寺日堯・雑司谷法明寺日了は讃岐丸亀へ配流(ただし、野呂及び玉造は地子・地領がないため関係しなかった)となったのである。
こうして手形提出を拒否するのは野呂日講・玉造日浣らを始めとする不受不施派のみとなったのである。
越えて翌六年四月一三日、幕府は野呂・玉造撲滅を目的とする「土水供養令」を発したのである。
即ち、幕府は地子・地領のみでなく、飲水・行路も皆ことごとく御供養であるから汝らはそれを頂戴して生命を保っているのであるから手形を提出せよ、と申渡したのである。
これに対し日講は諫状として『守正護国章』一巻を認め、去年御朱印を下された時には、こちらへの一派へは寺領・地子御供養と渡されたが、寺領・地子という別体があるから、これを施す人の心によってその義は不定であるということが可能であろう。
-三宝崇敬の心で施与するのであれば(敬田)供養となるであろうし、仁恩のために下すのであれば、世間一般の政道ということになろう-。
ところで今、飲水・行路のみならず、天の三光に身をあたため地の五穀に身を養うところの天恵までも御供養というならば、自然と徳化と国主の恩分はどのように考えられるべきかと問い、もしすべてが御供養であるといっても、自分は、別体である供養・地領は辞退して、飲水・行路・天の三光・地の五穀の総体は受用して、法を弘めるつもりであると申し述べたのである。
かくしてこの「土水供養令」によって、不受不施派は拠所を失い、いわゆる「惣滅」(完全な敗退)を招来するのである。
つまり翌月の五月二八日、日講は日向佐土原に、日浣は肥後人吉に流され、この他宗義の破滅を悲憤して、断食、自害、入水捨身あるいは流浪して身を終った者その数を知らずという。
そして寛文九年(一六六九)三月、幕府は不受不施寺院の寺請停止を発令し、不受不施寺院を檀那寺とする檀家ともども公民権を剥奪したのである。
この発令によって秘密組織をもつ禁制不受不施派となり、事実上「寛文の惣滅」をもって不受不施派が成立するのである。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』》