日浣(明静院)
日浣(明静院)
にちかん
(一六一六-七六)
字は覚円、明静院と号す。
元和二年美作上弓削(岡山県久米町)の住人川島喜右衛門重家の子。
九歳で出家し、長真院日栄の弟子となる。
一六歳の時下総玉造(作)檀林に学び、学成って津山顕性寺(岡山県津山市)二世に晋み、次いで玉造(作)檀林五世の化主に請ぜられた。
安芸の浅野光晟簾中の自昌院夫人は、日浣に篤く帰依して外護を加えたという。
また日浣は平賀日述・野呂日講らの諸師と共に大いに不受不施義を主張し、学徒を養成した。
寛文六年(一六六六)四月一三日の土水供養の暴令に対しては、日講と共に敢然として幕権に抗し、その不当を訴えたが、幕府は日講ともども流罪を仰せ付け、相良遠江守頼喬の預りとして、肥後人吉(熊本県人吉市)に配流した。
時に五一歳。
配所の富ヶ尾(鳶ヶ尾ともいう)にあること一一年、延宝四年(一六七六)七月九日六一歳をもって入寂した。
時あたかも盛夏、藩は日浣の遺骸を塩漬けにして、遠路江戸に送って幕府の指揮を仰ぎ、八月公儀事すみ埋葬したという。
配所の草庵は相良城祉の南方にあるという。
不受不施「後六聖」の一人。
著書には『破悲田書』『御歴代記』等があり、自筆の書状、曼荼羅等が金川の妙覚寺(岡山県御津町)に多く格護されている。
まず日浣の行動において特筆すべきことは、いわゆる「寛文の土水供養令」(寺子・寺領のみならず、飲水・行路・天の三光・地の五穀等についても、ことごとく幕府の供養であるから手形せよとの暴令)に対して、野呂檀林の安国日講とともに手形の提出を辞退(拒否)したことである。
即ちこの暴令に日講は四月一八日『守正護国章』一巻を作って抗議し、日浣も四月二六日、仁恩と三宝の恩とを分かち、これを分かつことは仏陀の金言、聖人の判釈に明白であるのに「もし御供養と存じ奉るの手形仕り候へば、只今件の義理に遠い申すのみならず、後代の嘲をのこし申すところ、迷惑千万に存じ奉り候故、御辞退申上げ候」(日浣言上書)と、手形の提出を拒否し、身軽法重・死身弘法の道念をもって断罪の日を待ったのである。
五月二八日幕府は、日講を日向佐土原・島津飛騨守忠高に、日浣を肥後人吉、相良遠江守頼喬に配したのである。
この二人がそれぞれ配流の時、寺社奉行加賀爪甲斐守直澄の館の前には千余の信者が群集、哭泣し、品川迄の見送り、及びその後、東海道の護送は極めて隠密裡になされたにもかかわらず、伏見や大阪では見送りの群集が人目を驚かすばかりであった(『破鳥鼠論』)という。
そして「寛文の惣滅」で禁制となった不受不施派は、法命を維持するために特異な地下秘密組織〈法中←→法立←→内信者・内信者群〉を形成していったのである。
その組織の中の法立(内信者と法中の間に介在して内信者からの供養物を受け、不浄を翻転し、自身の清浄な施物として法中に供養した)を「施主」(施主代・施主立ともいう)と称するのであるが、この制度について日浣は、「近年法難以後、不受不施方の様子の事、何方も旦那中信心強盛に候へども、公儀の吟味きびしく候故、是非に及ばず或は真言、或は禅宗、或は受不施等を頼みて寺請をとり公儀相済ませ、内心は前々に相更らず等云云。
其上施主を立て広く財施法施の行をはげまし、改入を志す信心を打すてこれを将護せずして誘引を立てず、彼をして退廃せしめば一類偏屈の内部魔なり。
奥師厳重の所破にあたらん」(『立施主順主義』)と、施主立を讃歎したという。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同『日蓮とその弟子』、影山堯雄『日蓮宗不受不施派の研究』、『宗全』二一巻》