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日講(安国院)

にちこう #3074

日講(安国院)

にちこう

(一六二六-九八)
日蓮宗不受不施講門派の祖。
録内啓蒙』の著者。
京都の生まれ。禁裏の武士欲賀八右衛門の子として、寛永三年三月二七日に生れた。幼名・寅一丸。
一〇歳の妙覚寺日習の門に入り、字は恵雄、安院と号した。
二〇歳の、関東に負笈。
飯高・中村の檀林に遊学し、その間に岩城相馬に寛永不受論によって配流の日領・日充両師を問うて、その受不受の論旨を聞き、中山・小湊・佐渡等に聖人の霊跡を探り、あるいは日遵に『諫迷論』述作の意を問い、中山日養には俗縁をもって日蓮聖人御真跡『金珠女抄』を拝して受不受の論をただした。
承応元年(一六五二)京に帰り、師の日習より宗義の奥底を受け、堺白河に莚を張ったが、冬にはまた関東に帰り、翌年、日習の遷化にあって帰京し、追の誠を尽して関東に帰檀した。
寛文元年(一六六一)秋、下総野呂妙興寺檀林の屈請により、玄義を講ずること三年、終講して江戸谷中感応寺に退き、蔵経の閲覧に耽ったが、再び野呂檀林の重請により、寛文五年、同檀林二〇世の能化職に就き、法華文句じた。
の声誉を伝え聞いて各地から学徒が雲集し、深草の元政は親しく書を送って、その盛を祝した。
この頃より幕府の不受不施への弾圧が益々激しくなり、遂には土水供養令を出して、その撲滅を計らんとした。
寺領・地子・飲水行路、みなこれ国主の敬田供養であるから、これを受領する手形と不受不施にあらざる旨の誓状の提出を諸寺・諸檀林に命じ、従わぬ時は寺領を没収することを布告した。
は同志、玉造日浣・平賀日述・雑司谷日了らと後策をじ、諸権門のを奔走して幕命の不当を陳情した。
芸州夫人、酒井侯母堂らの斡旋で一は沙汰止みとなったが、一〇月には再び、小湊日明・碑文谷日禅・感応寺日純らを召喚して手形の提出を迫った。
は諸寺を説いて、宗義の上から幕命に応じ難き旨の結束を図ったが、日明らの三寺一派は、身軽法重の宗制ではあるが、諸寺悉く滅失せしめられれば、不受の法脈も宗法も共に断絶の恐れがあるという理由で、幕命に妥協することを提議し、手形の誓文を添削し、寺領・地子を慈悲供養として受領する旨を提出した。
信念によれば寺領・地子は、これを施入した人の心によって、その意義を異にするもので、三宝崇敬の心で施せば敬田供養となり、仁恩の心によって施せば、通用の政道であるが故に、民として当然受くべき権利があるものとなる。
前者は三宝の恩で、後者は国主の恩である。仁恩は供養ではない。
まして行路土水みなこれ主の供養などということは暴論も甚だしいものであり、もし国主の与うるもの皆布施ということならば、天地・父母・衆生の諸恩を認めぬ不尽の論である。
受派の如く敬田供養と解すれば信施ではないから、受けるべきではなく、悲田派の如く慈悲哀愍の施と解すれば三宝供養を冒涜するもので、それは新しい受派であると攻撃している。
芸州夫人ら日を緩和せんと試みたが応ぜず、更に奉行の邸に上意の不法を訴え、手形の提出を拒否した。
幕府は遂に日述・日堯・日了・日浣らを配流し、寛文六年四月、日に手形の提出を迫った。
は『守生護章』を草して奉行所に訴え、飲水行路は供養でない旨を説き、釈尊の弟子は世間の暴令には従い難い本理を論じて最後の諫暁を試み、酒井・井上・坂倉らの諸侯を訪ねて陳情し、駒込本浄寺に閉居して命を待った。
五月二九日、幕府は上人を島津飛弾守の邸に拘禁し、ほぼ一ヵ月で、その預りとして日向の佐土原への流を命じた。
六月二六日、泣いて別れを惜しむ一〇〇〇余人をあとに江戸を発ち、大坂より船で、七月二〇日佐土原の大小路の配所に到着した。
これによって日は社会と団から隔離され、宗教活動が禁止されたが、読書は自由で遺文や法華経の義は禁ぜられたが、その他は許容された。
配流の年の冬には、奉行や老の請によって漢籍の講義が始められている。かくして上人は配流後いくばくもなく、その道風徳行学解が藩内に伝わり、学の師として尊敬を受け、領主から賓客の礼をもって遇せられ、書院、文庫、池庭等を寄贈せられている。
寛文九年には悲田派の策謀で、多年帰依を受けた芸州夫人との通用も絶たざるを得なくなり心を痛めた。
寛文一〇年(一六七〇)以降は主に漢籍と禅関係の書をじたが、かねて希望請願していた祖書、法華経のはなかなか許されず、漸く寛文一三年一一月に許され、日は大いに悦んだ。また郊外への出歩きも許され、行動の自由も得た。
法華経義は直ちに始められ、延宝三年(一六七五)一〇月には八一〇余座を成就し、在関の法華数と合して一〇〇〇座を成就し、宿願の一つを果した。
延宝四年には法華万部の読誦と祖書の註釈を誓願し、日々読誦に励んだ。
延宝五年一二月、かねて希望の住居移転がかなえられ、大小路より野久尾の新居に移居した。
祖書の義は延宝五年より始められ、貞享四年(一六八七)まで一〇年を要して終した。
貞享四年四月、畢生の大著、『録内啓蒙』の草稿に着手し、夜を日についで述作に没頭し、録内目次の順に草稿を進め、三年半で元禄三年(一六九〇)一〇月、草案を成就した。に日六五歳。
翌四年から草案の再治に着手、更に校訂を加え、特に出典の考証には多くの苦心を重ねて、元禄八年五月五日、再治の啓蒙三六巻の清書が平六によって完成され、写本も出来、日は生涯の本望と悦んだ。
また、悲田派との応酬について日明、日禅が悲田派こそ中庸の説との論を出すや、日講は佐土原で寛文九年、『破鳥鼠論』『小児問答』等を著して悲田新受の徒が不受の美名に隠れて清派を装い、敬田不施の利を貪る鳥鼠であると評し、また『三田問答詰難』を著して、供養の真意は敬田にあるとして、悲田中庸の論を破している。
また日指・津寺両派の争論の決を求められ、内外共に不受主張の津寺派を支持した。
の佐土原在島三三年、自らの日記を摘要した『説黙日課』にその生活の詳細を見ることが出来る。
元禄一一年三月一〇日、病により俄かに遷化。
寿七三歳。
は宮崎県佐土原町上田島、今坂団地の丘の頂に、不受不施妙覚寺建立のものと、講門派本覚寺建立のもの二基ある。
執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、立正大学仏教学会『大崎学報』一〇五号、『日本仏教人名辞典』「日講」の項、『史大辞典』一一巻「日」の項
(河野智彰)

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