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津寺派

つでらは #3936

津寺派

つでらは

不受不施派が禁制下に置かれて以来、〈法中-法立-内信〉と連係する地下組織が自然的に形成された。
法立法中に従い内信者化指導に当るという基本は常に変らないところであった。
信者に対する見解の相違から初期には極めて常識的に解決されていたことであるが、天和二年(一六八二)に宗順、前年に助七の両法立が内信者導師を務めたことが清濁雑乱の違法行為であると指摘され、宗順の属する津寺村(岡山県津寺)の法中である覚隆院日通の一派と助七の属する日指方の両派に相分れて論争を展開した。
両派は備作三州の法燈職であるが法難のため京都に在住していた日相、日向の流聖日に仲裁を願ったが、本尊の清濁問題、始経導師の問題、禁制下での広範囲に渡る書状往復の行き違いの問題もからみ、日相、日講は讃岐の流僧日堯、日了の指導を仰ぐ日指派に「不通の旨」を申し渡し、元禄二年(一六八九)日指派とは完全に分派した。
寛正の盟約に示されているとおり先師以来の強義為正を旨として法命相続をしていこうとする。
信者については内心が清浄とはいえ外相は仮判の失ある濁徒であるとして外濁の点を非常に重要視するため、また法立は内外共に完全なる清浄であるべきとの立場をとり、法立は順縁、内信者を逆縁(他宗者)とし逆縁たりとも縁を結んでおくという捨て本尊的理論の上から、法中授与の本尊も内信者の手に入れば汚れてしまうので法立は内信者との同座同行はもちろんのこと、本尊礼拝、始経導師をしてはならないとする。
このように法立と内信者を峻別することにより、施主については法中を汚さないための方便にすぎないとしている。
以上のように自派の正当を強く主張するあまりに内信者の立場からは論旨が形式的になりすぎた傾向がある。
この津寺派は安国院日講の指導を受けたので講門派とも称し、明治一五年(一八八二)三月、日蓮宗不受不施講門派の公許を得、岡山県鹿瀬に本覚寺を創し現在に至っている。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』》

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