寛正の盟約
寛正の盟約
かんしょうのめいやく
寛正七年(一四六六)二月、京都日蓮宗諸門流の間に結ばれた和睦の盟約。
これより先、日像・日静・日尊らにより、京都に教線が伸張して、四条門流・六条門流・富士門流が形成され、更にそれらからの分派も行われ、統一的な日蓮教団は確立されるにいたらず、諸門流の間に対立拮抗が現出していた。
更に日什・日陣・日隆らの門流や富士門流等の勝劣派は一致派を批判して、一致・勝劣両派の対立も激しかった。
こうした門流の対立や一致・勝劣派の拮抗を解消し、門流間に和融をもたらそうとする動きもあり、これを進めたのが、四条門流の妙覚寺日延、その弟子本覚寺日住、弘経寺日芸、妙覚寺日源、立本寺学頭法性院、六条門流の本国寺明静房であり、日隆門流では妙蓮寺学頭仏性院、中山門流では月蔵房日祝らであった。
しかし諸門流や一致・勝劣派の和融の強力な契機となったのは、山門の日蓮宗攻撃の企てという外部からの圧力であった。
寛正六年一〇月一五日、本覚寺真如院日住は、北山鹿苑寺に参詣した将軍足利義政に、『妙法治世集』一巻と目安とを上呈した。
『諫暁始末記』によれば、義政がこれらを三度頂戴したことを諸人が目撃しているという。
しかし、この事は山門を刺激するところとなり、洛中日蓮宗の危機をもたらしていくのであった。
同年一二月、山門横川首楞厳院閉籠衆は犬神人らを発向せしめ、洛中の日蓮宗諸寺に一段の罪科を処すべきことを申し入れた。
一段の罪科とは諸寺を破却することで、閉籠衆の事書が送られたのは洛中法華堂一九ヵ所であったという。
閉籠衆が京都諸寺を告発した理由は、日蓮宗が、(1)一乗醍醐の法味を失い、仏意守格の内証を廃したこと、(2)諸人を碍げ邪道に誘引させたこと、(3)法服を着して高座に登り法談を行い、南岳・智者大師を軽んじたこと、(4)一宗に非ざるに、邪義をいたすこと、(5)台峰己証の金言に違い、諸師の教識に背くこと、の五つの点にあった。
それを受けとった妙覚寺では、その要点を、(1)日蓮の邪義、(2)諸人を惑す邪道、(3)法服を着して法談を行う、(4)法華宗は宗に非ず、の四つにまとめて反論している。
この事書のなかで京都諸門流を「日蓮宗等」と総称しているのは注目されることで、日蓮教団が法華宗を自称したのに対して、そう呼ばずに「日蓮宗」とし、しかも日住の諫暁を契機としながら諸門流を日蓮宗として、一括し、その拠点を一挙に破却しようとしたのである。
まさに京畿日蓮宗全体の危機であった。
そして、この危機感が門流の和融を実現させることになるのであった。
この年一二月一八日には後土門天皇即位の大礼が行われることになっていた。
そこで、洛中の日蓮宗は、山門の僧徒が洛中に乱入することがあれば大事であると、山門奉行布施下野守貞基・飯尾左衛門大夫之種および日住の信者であり侍所頭人であった京極持清にこれを報告した。
持清は京都の半分は日蓮宗である上、信心の檀那が身を捨て防戦に努めれば洛中は大事にいたろうとして、山門奉行に山門僧徒に法華堂破却のことがあるかを問うた。
奉行によれば、山門三塔にかかる動きはなく、悪徒の企てるところであることがわかった。
一二月二五日、奉行は、もし悪徒が発向するようなことがあれば誅伐を加うべきの由を伝えた。
ここにおいて、悪徒の発向と法華堂破却のことは不発に終ったのであった。
一方、日蓮宗門徒が悪徒の乱入を防ごうとして共同戦線を張るかに見えたころ、門徒の拠点であり、破却の対象として狙われた法華堂諸寺の間にも同盟の結成が企てられた。
一二月一三日付の横川衆徒の事書は一四、五、六日に諸寺に伝えられ、一八日立本寺から諸門流に触れが回り、翌日諸寺代表者が本覚寺に集会した。
二九ヵ寺から集ったといい、二三日にも集会が行われた。
別の記録では集会は一九、二二日に行われ、集る者三〇ヵ所からという。
参集しなかったのは勝劣派の六ヵ所といわれ、勝劣方五、六ヵ寺は山門へ詫び言をしたとの風聞もあった。
しかし二九、三〇ヵ寺が集ったというから、京都有力寺院のほとんどが集ったとみてよいであろう。
更に勝劣派の上行寺・住本寺も与力同心して「かかる一味談合は古今に無き事」と門徒自身が評価したほど画期的なことで、この集会のなかから「異体同心ノ御書ニ任セ、一宗和睦シテ、自他ノ改悔トモ擬シ、法理一味ニナリテ同席、広宣流布ヲ祈ラルベシト、日住申セシカバ、諸人尤トテ談合アルマゝ大旨一味同心ニ定メ候」という結束が生れ、翌寛正七年(ただし一月二六日改元して文正元年となる)二月一六日日蓮聖人降誕の日、盟約締結を実現したのであった。
三浦大明寺一七世慈光院日航の『理契記』(慶安三年=一六五〇)には、次のような前文と条目等を掲げる(原漢文)。
「それ当門中古の相論、是非未だ一決せずして、隔意今に残りて、仏法繁昌の障げと成る事、歎きても余りあり、悲しんでも詮なし。
爰に、今般門流の尊宿衆議して曰く、法流融通は広宣流布を祈にしかず云々。
然れば、末弟和睦を成し、諸篇の改悔に擬するなり。
これを以て先達不和の古を補ない、これを以て師の報恩の志を献ず。
快く本末の別異なく、永く一味の和睦を遂げん。
冀くば、水魚断金の約諾朽つることなく、濁ることなからんことを。
法燈万歳の外に輝き、恵命三会の暁に続かんのみ」との前文に続き、次の条目が記されている。
「一、高祖所立の本迹は一体の事。
但し、機情昇進等の勝劣あるべし。
一、異体同心の志を以て、折伏弘通を専にすべき事。
一、謗法の寺社に於ては、物詣を致すべからず。
堅く相互に禁制すべきの事。
一、謗者の供養を受くべからざる事。
但し、世間の仁義愛礼を除く。
一、法理に就いて強弱の両者ありと雖も、強義を以て正と為すべき事。
一、真俗の輩、初発心の各寺に向背すべからず。
然しかあれば、互に余寺として許容すべからざる事。
但し、談合を遂げ、事に依り互に許容すべきか。
次に供人においては、相互に受けて供養すべき也」。
これに続いて「右、諸門流の契約の状、件の如し」とあり、年月日と、京都諸寺代表の連署がある。
しかし、ここに署名した寺院の代表者の名は具体的にはわからない。
盟約は、この時点と情況における京都諸門流のコンセンサスがどこにあったかを示している。
第一は、本迹一致を主体としながらも、勝劣の主張を認め、一致・勝劣両派共立の現状を容認したことで、一致を主として条文に記したのは、諸寺の中心を一致派が占めていたことや、談合のリードを一致派がとったことに基づくであろう。
しかし両派共存の容認は再度分裂の因子を内包するものでもあった。
第二は、折伏強義を主としたことで不発に終ったが、攻撃があればうけて立つという戦闘的態度もこれに含まれていよう。
第三は、謗法に対する態度決定であり、謗法の寺社参詣を禁止し、謗法の供養不受を確認している。
第四は、諸門徒の僧俗の初発心の寺への向背を禁止したことで、これは諸門徒間における檀越の奪い合いを抑制することであった。
和睦・和融に対する門流間の離反・対立の要因が、この檀越の奪い合いにもあったことを示していよう。
このように、山門衆徒の日蓮宗攻撃という外からの圧力を契機に、京都諸門流の間に結ばれたのが寛正の盟約であった。
従って、この外圧という危機が去れば、同盟の必要性も希薄化するのであって、盟約における本迹一致・勝劣の共存の容認は再分裂の因子になるし、弘通の赴くところ、檀越の奪い合いも再生産されるに至るのである。
あるいは本国寺は身延久遠寺や妙顕寺との間に日蓮正嫡の相論を起そうとしたし、妙本寺の日真は勝劣を主張して同寺から分立して日真門流を立てていく。
盟約でのコンセンサスは、こうして破れていった。
それは、盟約が基本的には、外圧に対する措置であったからである。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同「寛正の盟約」『続・日蓮宗の人びと』、高木豊「京都日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』、『日蓮辞典』「寛正の盟約」の項》
(高木豊)