妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日真門流

にっしんもんりゅう #2846

日真門流

にっしんもんりゅう

日蓮聖人滅後まもなく始まった京都への布教はめざましいものがあった。
その内でも四条の妙顕寺、六条の本寺が二大拠点とされる。
日真門流は四条の妙顕寺より分立したもので、派祖の日真(一四四四-一五二八)の名から日真門流、あるいは本拠地の京都本隆寺(京都市上京区智恵光院通五辻上ル紋屋町)の寺名から本隆寺派、または教理上からくる本妙法華宗法華宗真門流との呼称がある。
日真は文正元年(一四六六)に妙顕寺第六世日具に弟子入りし宗義研鑽に努力したとされる。
とくに当学界の流行思潮である本迹勝劣義の研究に焦点をあて、本能寺、妙蓮寺を歴訪し古学広知の学匠との評判をとった。かくして日真は本迹勝劣の新義を唱えて、師匠の日具とは教理教説の点について双方相い受け入れない点が生じた。いわゆる一致・勝劣の争いである。
長享二年(一四八八)夏には対立が表面化し四条門流の妙顕寺は内部対立が続いた。
だが、遂には延徳元年(一四八九)に日真は自己と同意の大林房日鎮および越前の本因、加賀の民部卿、但馬の三位房、丹後の少納言、京都の真理、正現などの同志と共に分離独立し、四条大宮に本隆寺を建立した。
更に日真はこの勢いをもって同年には若狭・越前への布教に努力し、若狭に本境寺、越前には真言宗の寺を改めて本興寺としている。
また同年ごろには平等会寺の顕本院日唱は日真の本迹勝劣の新義に賛同し自己支配化の末寺一三ヵ寺を率いて会下に参じている。
日真の独立は京都を中心にする法華団に大きな影響を与えた。
ち京都に拠点をおく法華宗の各派本寺は、法華各派の対立をさけるために寛正七年(一四六六)にいわゆる寛正の盟約を結んでいた。日真の独立分派活動は、この盟約を名実共に崩壊させることとなった。
七年後の明応五年(一四九六)は一致方と勝劣方とのに法義の論争が生じ武力をともなう争いにまで発展した。
また一致勝劣の争いは単に一致方と勝劣方との対立ばかりではなく、それぞれの部内対立をもたらしており、勝劣方の本隆寺と妙蓮寺・本能寺、妙満寺が大永二年(一五二二)の一〇月に対立し勝劣方は分立分派してそれぞれ独自の路線を強調することとなった。
これ以降の本隆寺派は若狭・越前および加賀の北陸道方面に布教の焦点をあてて、戦末には東北地方に線を伸張させている。
明治期には北海道にいち早く開している。
明治九年(一八七六)二月に本妙法華宗と改名し、法華本門流、法華陣門流と合同し法華宗として宗制認可され、昭和二七年(一九五二)一〇月に法人法によって規則認証、登記されている。
所属寺院は一三八、教会・布教所四二余を数える。
《『日蓮団全史』上、小松邦彰・花野充道『日蓮団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)、『日蓮辞典』「日真門流」の項》

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