顕本
顕本
けんぽん
「本を顕わす」と読み、法華経本門の法門で、釈尊が伽耶始成を開して久遠本地を顕されたことをいう。
詳しくは発迹顕本、あるいは開迹顕本という。
日蓮聖人の教学は寿量品の発迹顕本に重点が置かれているが、この発迹顕本を契機として、一念三千の法門、仏陀観等を明確にされていった。
ここでは釈尊の顕本の問題に限定して解釈を試みたい。
聖人は『開目抄』に「本門十四品も涌出・寿量の二品を除ては皆始成を存せり。
雙林最後の大般涅槃経四十巻・其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」(定五五三頁)と、爾前諸経には法身の無始無終という本地の開顕はあるが、法華経本門の如く三身の顕本は不説と明示されている。
つまり法身の顕本は諸経の常に談ずるところであり、今経の如き三身顕本が明かされることは、諸経と異なるのであるということになろう。
寿量品の仏は『法華文句』九にも明かされるように、三身即一身、一身即三身の三身円満具足の釈尊であり、その法・報・応三身の本地が開顕されたのが、寿量品の発迹顕本ということになる。
『観心本尊抄』には、受持譲与段を経て凡心具釈尊という、いわゆる己心の釈尊が明かされているが、そこには「然我実成仏已来云」の発迹顕本の文を引用し、「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏也」(定七一二頁)という規定がみられる。
即ち教相を媒介として観心が明かされたのであり、その釈尊は三身円満にして久遠無始、三世常住であるという説示がなされたのである。
ここに始成正覚の仏と、本門の久遠実成の釈尊との明確な差異が見られるのである。
このことを建治元年(一二七五)系年の『一代五時図』には、始成の三身と久成の三身としてその仏格の違いを示されている。
爾前経等の始成正覚の仏は、始成の三身であって、法身は無始無終、報身は有始無終、応身は有始有終と規定されている。
つまり法身の無始無終のみ開顕されていることになる。
それに対して、久成の三身は共に無始無終なることが図示されている(定二三四二頁)。
この『一代五時図』は『開目抄』と同致を為すものである。
このように寿量品において、三世にわたる顕本が説かれていることは、釈尊の、永遠の寿命を顕すものであり釈尊の衆生教化の不変性を意味する。
それは『法華文句』の「釈涌出品」に明かされている、如来の神通の力(過去)、如来大勢威猛の力(現在)、如来の師子奮迅の力(未来)という三世益物にほかならないであろう。
さて、このように聖人は寿量品の文を絶対依拠として久遠釈尊の成仏を実事と把握せられ、三身顕本を正意とされたのである。
しかし、この顕本を解釈するに当って理事の分別が日本の天台宗においてなされている。
日蓮聖人においても、真蹟の存在しない中古天台の色彩が強い『草木成仏口決』には、生死流転の法界を理事顕本で解釈する。
即ち「法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし。
理の顕本は死を表す、妙法と顕る。
事の顕本は生を表す、蓮華と顕る。
理の顕本は死にて有情をつかさどる。
事の顕本は生にして非情をつかさどる」(定五三三頁)とあって、事常住の法界を肯定する立場から顕本を論ずるのであって『開目抄』等に説示された顕本の概念と異にしている。
また執行海秀によって聖人滅後の作と断定された『御義口伝』には、「信の一字は寿量品の理顕本を信ずる也。
解とは事顕本を解する也」(定二六七三頁)とあって、寿量品の顕本に理顕本と事顕本の二種が在ることがわかる。
事顕本とは事成顕本を指し、寿量品において五百塵点劫の譬喩をもって顕発された久遠本地をいう。
しかし、これに対し、十界の無作本覚を当体のまま顕すことを理顕本という。
中古天台では、事顕本よりも理顕本を正意とし、寿量品の文上の塵点久成は仮説であって、その文上能顕の報身久成をよりどころとして、文底に本覚身(無作三身)を顕すことを正意とするのである。
つまり理顕本義は永遠の理法を体とする法身顕本が正意となる。
本来、顕本とは釈尊の三世化益を真意として説かれたものであって、法身の顕本は諸経の常談であることからすれば、理顕本義は本来の顕本義から乖離したものであるといわざるを得ない。
日蓮聖人の顕本義は、前述のとおりであるが、理顕本義は聖人の立場でなく、その点からも『草木成仏口決』、『御義口伝』は問題の存する御書といえる。
さて、中古天台では教相よりも凡夫の観心を正意とすることから、恣意的なる解釈が生れたが、顕本義に関しても次のような説がある。
即ち『三十四箇事書』には、顕本には多種ありとして、(1)事の顕本、(2)屈曲の顕本、(3)理の顕本、(4)観心の顕本の四種を列挙している。
(1)は経文に説示の如き顕本。
(2)昔、正覚を感ずることは屈曲であって、本来は成・不成なしというのである。
それは永遠なる真如の法が根本であるからだという。
それ故に成・不成を論ずることはみな屈曲で成・不成を論じないものを屈曲の顕本だと規定する。
(3)十界をあらためずそのままの本体を理顕本という。
それは本より十界常住だからであるとする。
これを実の顕本と定める。
(4)衆生の一念の心は十界の体であり、前念・後念を論ずは事顕本。
念々において善悪の心を起すは屈曲顕本。
一念に諸悪・諸善を具するは理顕本。
それ故に我ら衆生は念々に相続して顕本義あって、これを観心の顕本という。
このように四種の顕本義が示されている。
この『三十四箇事書』の顕本義は、行学院日朝の『観心本尊抄私記』(『宗全』一六巻二四三頁)に、「或伝云」として紹介されている。
また慶林坊日隆の『開迹顕本宗要抄』には、顕本に幽微、屈曲の二つがありとし、屈曲顕本の概念は(2)の内容と異なる。
このことからも、顕本に関して多くの解釈がなされていたものと推測される。
《小松邦彰・花野充道『日蓮の思想とその展開』(春秋社『シリーズ日蓮』二)、『遺文辞典』教学篇「顕本」「事顕本」の項》
(北川前肇)