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発迹顕本

ほっしゃくけんぽん #4188

発迹顕本

ほっしゃくけんぽん

「迹を発(ひら)いて本を顕わす」と訓じ、本門寿量品において、迹仏たる始成正覚を開いて、久遠本仏を顕すことをいう。
法華経の説相に従えば「開近顕遠」、即ち伽耶近成を開いて久遠を顕すことであるが、義に従えば、垂迹仏を開いて本地を顕示することである。
「発」とは「開」と同義で「開迹顕本」ということである。
法華玄義』第一に「又衆聖の権巧を発して、本地の幽微を顕わす」という文があるが『釈籤』では「初の文は本門。其の覆う所を開くが故に発と為す」と釈し、「発」とは覆われているところを開くという意味に解釈しているのである。
この「発迹顕本」の語句の出処をあげれば『法華玄義』第九下に、本門の力用に十意があるとして十重顕本が示され、四悉檀による解釈が為された次下に「発迹顕本四悉檀は永く衆経に異なるなり」とある。
また『法華文句』第九下の「釈寿量品」には三身相即の久遠本仏が説かれ、天台大師の仏身観が明らかにされているが、諸経の仏身と法華経寿量品の仏身との違いについて「発迹顕本の三如来は、永く諸経と異なる」(正蔵三四巻一二八頁中)と釈されているのである。
この久遠実成の開顕に注目された聖人は「発迹顕本」によって真の一念三千が顕れ、二乗作仏も定まると述べて、本門中心の一念三千観を樹立されたのである。
ち『開目抄』に「迹門方便品一念三千、二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱たり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるににたり」(定五五二頁)と述べて、本門の本因本果の法門を説かれ「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」と記されている。
このことからも日蓮聖人の教学において、発迹顕本は重要な意味を持つことが知られるのである。
《『遺文辞典』教学篇「発迹顕本」の項》

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