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勝劣派

しょうれつは #882

勝劣派

しょうれつは

日蓮聖人滅後、法華経一部の受容のあり方において、迹本二門に勝劣を立てるいわゆる本迹勝劣義が喧しく論議され、それを契として分派を見るに至った。 そこで、本迹勝劣を立場とする門流を勝劣派と称し、迹本二門を一体のもの、あるいは平等に見る立場を一致派という。 制上からいえば、明治初年に当時の日蓮教団は政府の通達によって 一致派と勝劣派の二派に統合され、それぞれに管長を置いたが、明治九年(一八七六)勝劣派は興門派、妙満寺派、本成寺派、八品派、本隆寺派の五派に分立し独立した。
そこで勝劣派に属した五派について派祖を中心に歴史的に見ると、まず六老僧の日興は身延山より離山し、大石寺および重須の本門寺を創し、正慶二年(一三三三)に入寂。 この富士門流の教学は、本迹一致説を破す本迹勝劣の立場で、しかも種本脱迹の勝劣であって、種勝脱劣を主張する。 在世の法華経は脱益であって本迹ともに「迹」に属し、久遠の法華経は下種であって「本」であるという。 これは釈尊在世と滅後末法に勝劣を立てる見方で、釈尊所説の法華よりも日蓮聖人所弘の法華は勝れたものとして、釈尊を脱仏、聖人を久遠本因妙下種本仏というに至るのである。 この学は現在の日蓮正宗に継承されている。
次いで室町期に入ると、各門流からの分立を見る。 まず玄妙阿闍梨日什(一三一四-九二)はもと天台宗の学匠で、玄妙能化と称され、たまたま日蓮聖人の『開目抄』、『如説修行鈔』を閲読して随喜し、日尊門家、富士門徒をたずねたがその門戸が閉じられ、真間山弘法寺の日宗を訪れ、康暦二年(一三八〇)三月帰伏状を捧げ、同年起請文を記して中山門流へ改衣した。 爾後、中山、真間両山の衆徒の教育に当る一方、しばしば上洛して諫暁に努めた。 しかし、永徳四年(一三八四)二月に一派を唱導し、嘉慶元年(一三八七)八月二五日には置文を書して真間帰伏状を破棄し、中山門流と完全に分離した。 日什は日蓮聖人以降の直弟・末弟を否定し、正授日蓮・経巻相承をもって一派を建立した。 その義は不惜身命・折伏逆化を正意とする如説修行の強調であり、本迹論において法華経一部修行・本勝迹劣であった。 この日什門流が現在の京都妙満寺を総本山とする顕本法華宗である。
日什より二〇余年後、越後に生を享けた円光房日陣(一三三九-一四一九)は八歳のとき摩訶一日の開いた本成寺に入り、一一歳のとき六条門流の本国寺日静について宗学を修めた。 同門に建立院日伝がいる。 応安二年(一三六九)日静は入寂に臨んで、本寺を日伝に本成寺を日陣にゆずった。 日陣は本成寺を根拠として北陸・奥羽・東海・関東に伝道し、化活動に大なる成果を収めた。 その後、応永四年(一三九七七)上洛し、本寺において本勝迹劣を主張し、貫首日伝と多年にわたる論争に及ぶのである。 なかでも日伝の五十五カ条の難問に対する日陣の答釈は『本迹同異決』と名づけられている。 遂に日陣は本寺と訣別し、応永一三年四条堀川油小路に本禅寺を創し、京都における本拠弘通所とした。 その学は日伝の一往勝劣・再往一致の本迹義に対し、本迹法体異の勝劣義を立て、迹門無得道寿量品正意である。 なお、この門流は、現在越後の本成寺を総本山とする法華宗陣門流として継承されている。
さて日陣より約半世紀後、越中射水郡に生を享けた慶林日隆(一三八五-一四六四)は四条門流より分立して新たに門流を形成することになる。 日隆は一七歳のとき妙顕寺(当妙本寺と称す)の通源日霽(つうげんにつせい)に師したが、日霽は応永一二年入寂し、月明が後を受けて入寺した。 月明は公の出身で年も若く、名誉権勢に執着をもった人で、日隆は叔父の日存、日道らと月明の軟弱な摂受的態を批判して妙顕寺を退出した。 応永二五年には一妙顕寺へ改悔帰伏したが、まもなく再この門流を離れて自ら折伏伝道に当り、有力な外護者を得て多くの寺院を開創した。 ち尼崎本興寺、河内本厳寺、高岡本光寺、越前本隆寺、京都本能寺、堺顕本寺、備前牛窓本蓮寺等である。 また多くの著述をなし、学と日蓮学との相違を明確化しようとした。 その学の特色は、本勝迹劣に立脚した本門八品正意であって、本門八品上行所伝の本因妙下種の題目に帰結する。 この日隆門流八品派とも称し、本能寺、本興寺、妙蓮寺、光長寺、鷲山寺の五山一管長制であった。 現在では妙蓮寺を除く四本山をもって一管長制となり、法華宗本門流と称し、妙蓮寺は一本山として本門法華宗を名乗っている。
さて最後に、四条門流より分立した常不軽院日真(一四四四-一五二八)について触れてみる。 日真は但馬城崎に生れ、六歳のとき妙境寺に入って日全に師。 二二歳で四条門流の日具に宗義を学び、当時の教学界に喧しく論議された本迹勝劣義を研究した。 日真は八品派の本能寺、妙蓮寺を歴訪し、妙蓮寺日忠と日特に親交を結んだ。 長享二年(一四八八)夏の頃大林日鎮のにおいて同宿講があったが、このとき本迹一致・勝劣について論談した。 しかし義を尽くさなかったために、日真は備中野山に隠棲中の日具に勝劣義の書を送り、決裁を乞うた。 日具は日像門流の一往勝劣・再往一致の立場から日真の主張を破した。 翌延徳元年(一四八九)日真は同志と共に妙顕寺(当妙本寺)を退出し、四条大宮に一寺を建立して本隆寺と号した。 また日真は八品派とも親交があったが、文亀年中、越前本興寺宝塔供養会のとき、本能寺日増、妙蓮寺日忠、妙満寺日崇が順したが涌出品の解釈で日忠と対立するに至った。 その後、大永三年(一五二二)に八品派とも袂を分つことになる。 日真の学は、八品派の特徴である八品正意を否定して寿量品正意を立て、本因下種の題目に対して本果下種の題目を主張するのである。 なおこの日真門流は現在、法華宗真門流として継承されている。
(北川前肇)

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