弘通所
弘通所
ぐづうしょ
日蓮宗が積極的な布教によって発展をとげた室町時代から戦国時代にかけての伝道の拠点である。
日蓮聖人の理想を受けて、法華経の「弘通」を果たす最前線であったことから、こう名付けられた。
日蓮宗は本来的に伝道教団であるから、当時における布教活動は凄まじいものであった。
特に「法華談義」と呼ばれる説法による伝道は有名で、道行く人々をこの弘通所に招き入れて、法華経の教えや日蓮聖人の教説を解き明かしていた。
今日でいう「説教所」にあたる施設で、地方や門流によっては「講坊」「講演」「持仏堂」などとも呼ばれている。
「弘通所」という名称が多く用いられていたのは室町・戦国時代の京都である。
当時の記録によれば、日親は永享一一(一四三九)年にはすでに「弘通所」を構え、京都伝道の根拠地としていた(『埴谷抄』)。
これが後の本法寺である。
また本能寺は京都「北小路室町東頬北西角屋地壱所、東西弐拾丈、南北一五丈」の地を弘通所の敷地として永正一五年(一五一八)に購入している。
従って弘通所は寺院建立の前段階としての性格をもつものと、大寺院の布教所としての施設との二つの性格を有している。
しかし、いずれにしても決して広いとはいわれない弘道所で、日蓮宗の僧侶たちは大いに法華経信仰を鼓吹し、町の人々は信仰を求めてここに集まった。
ここで行われる説法の内容を窺うと法華経の中で見宝塔品、提婆品、寿量品、薬王品、随喜功徳品、法師功徳品、普門品などが多く、
特に寿量品と観音の利生を説く普門品が著しいのは、当時の世相をよく物語っているといえよう。
やがて京都に二十一箇本山の偉容が整い、京都日蓮宗の勢力が最盛期を迎えると、この弘通所は伝道の場であると共に、修行の場所としての性格も備えてくる。
やがて有力な外護者も現れて施設を拡充し、本山に対する末寺として寺号を公称するに至るのである。