日蓮正宗
日蓮正宗
にちれんしょうしゅう
六老僧の一人、白蓮阿闍梨日興(一二四六-一三三三)を派祖とし、静岡県富士宮市の富士山大石寺を総本山とする日蓮系の一派。
ふるくは富士門流、日興門流あるいは大石寺派と称す。
日興は正慶二年入寂に臨み、大石寺を弟子蓮蔵房日目に委嘱した。
日目はこの法灯を継承し、同年上洛天奏のために弁日道を大石寺の留守役と定め、日尊(にちぞん)・日郷を伴って旅立った。
しかし日目は途中美濃垂井宿で入寂し、日尊はそのまま関西地方への弘通に向い、日郷は富士に帰って日目の遷化を報告した。
合せて日目の入寂に当って自分が大石寺の法灯を委ねられたことを大衆に告げた。
ここに端を発して大石寺留守役の日道と日郷との間に大石寺継承をめぐって争いが生じ、三年後の延元元年(一三三六)日道は大石寺を継ぎ、日郷は追われて安房吉浜の妙本寺(現在の保田)に退いた。
日道(四世)ののちは、日行(五世)・日時(六世)・日阿(七世)・日影(八世)と継承し、九世の日有(一四〇九-八二)は著名な学匠であって、種脱勝劣の立場から脱益の教主を釈尊、下種益の教主を宗祖日蓮聖人と定め、日蓮本仏論を主張するに至った。
江戸時代においては二六世堅樹日寛(一六六五-一七二六)が出て、大石寺教学の確立を図った。
日寛には日蓮聖人遺文の註釈に一〇篇があり、宗義を論じたものに『六巻抄』がある。
そして、この『六巻抄』によって、大石寺系教学は組織大成されたと見ることができる。
その特色は日有の日蓮本仏論を更に推し進め、本果妙の釈尊は脱益の教主で本地自受用報身如来の垂迹にすぎず、日蓮聖人は本地自受用報身如来の再誕で、本仏そのものであると解釈したのである。
明治に至って新政府のもとに教団の統合がなされ、大石寺派は勝劣派に所属し、明治九年(一八七六)には日興の法脈を汲む富士五山(上条大石寺、重須本門寺、西山本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺)を始め、保田妙本寺、京都要法寺、讃岐本門寺等の諸本寺が合同して日蓮宗興門派として独立した。
明治三二年興門派は本門宗と改称したが、翌年九月には大石寺のみがこの本門宗より離脱して日蓮宗富士派と称した。
更に明治四五年六月に富士派は日蓮正宗と改称し今日に至るのである。
なおこの日蓮正宗には在家信者をもって構成される(法華講)一団体として創価学会がある。
【補記】
上記は昭和五六年発行『日蓮宗事典』掲載の内容である。平成三年(一九九一)創価学会は日蓮正宗から破門された。
《『日蓮辞典』「日蓮正宗」の項》