日什門流
日什門流
にちじゅうもんりゅう
日什(一三一四-九二)を派祖として形成された教団で、京都二条の妙満寺(京都市左京区)を本拠地とすることから妙満寺派との呼称がある。
日什は会津黒川の石塚氏一門の出自で、最初は叡山横川上智院の慈遍に師事した天台僧で玄妙と称した。
康永年中(一三四四頃)から観応年中(一三五〇頃)の間に、富士門流の日尊門下の日印と交流を深め同心したものの法華宗には転宗せずに、故郷に帰り天台宗の羽黒山東光寺に入り布教に専心した。
その一方、日印とは同郷に当ることからも富士門流の会津実成寺などとは交渉を持ち続け教義研鑽を続ける内に富士大石寺にも教学上の疑問点を問い合せたが、富士門流では日印の質問を無視し答えなく門戸を閉じてしまった。
このことを機会にして日什は富士門流との交流を断ち、かつ自己の同心する法華宗義の疑問点を中山門流にぶつけるにいたった。
康暦二年(一三八〇)頃に中山門流の真間弘法寺の日宗の処に赴き法義を問訊し、同年三月二二日ついに帰伏したとのことである。
かくして日什は日宗の門下に入り、弘法寺の学頭として活躍し中山門流内において頭角を現した。中山日尊の名代として諫暁の唱導に上洛するほどであった。
だが、永徳元年(一三八一)の奏聞の折には日尊代を削って諫奏したというように、中山門流からの分立を意図している。
翌年には鎌倉埋橋に本興寺を建立して弘通の拠点を開き、管領足利氏満の帰依を得ている。
永徳三年の奏上は関白、管領になされた。
更に同夏には五条坊門室町の西頬に小庵を建立し弟子の日義をおいて恒久的な布教拠点を開いている。
また遠江府中に玄妙寺を開き、続いて同国吉美に妙立寺を建立している。
至徳二年(一三八五)一一月には法華本門戒の血脈を認め日仁に授け、元中四年(一三八七)八月二五日、置文を書して真間帰伏を破棄し中山門流から独立している。
元中六年には五条坊門室町の小庵を改めて妙満寺として弘通の本拠地としている。
妙満寺を本拠にして頻繁に公武に諫暁の奏聞に及んだが聞き入れ取上げられず、むしろ禁圧の動きがみられることから、明徳二年(一三九一)七月末には京都を離れ、東海道を下り会津の妙法寺に下着している。
翌年正月二〇日に「置文」著し、二月二八日に遷化。
日什の諫暁奏聞運動は弟子である会津六人(英俊、日金、日妙、日穆、日義、日仁)を中心にして引き継がれ応永五年(一三九八)には京都市中で什門の諫暁奏聞は大評判となった。
だが妙満寺派の動きは他宗勢力はもとより法華宗派内からも反発をかったものの奏聞運動はやめず活発に宗風を弘めたとされる。
しかし運動の中心人物の一人であった日実が日陣門下に転派し、分立したような内訌もみられ諫暁運動にも限界性がみられるようになる。
とはいえ妙満寺派の活発な動きは衰えず、一四〇〇年代に入ると、そのエネルギーは関東地方に向けられる。
妙満寺一六世日泰は関東に布教し強力な信仰圏を築き上げている。
日泰は長禄三年(一四五九)に武蔵品川の本光寺に布教し、下総浜野の本行寺を開き、続いて上総土気の小領主酒井定隆の帰依をうけ、酒井氏領内一円を法華宗に改めさせており、後世これを上総の七里法華と呼称させるほどの強力な信仰圏を築き上げている。
また日泰は文明一六年(一四八四)には伊豆三島に本妙寺を開基したように、活動の幅広さが指摘できる。
しかるに什門の強義折伏をもってなる諫暁運動は教線の伸張と共に、諸宗派はもとより権力との対立を生み出すことは当然のことであった。
例えば安土宗論を引き起した普伝院日門は日泰の学系に連なる人物で本行寺に遊学したことが知られる。
諸宗勢力と権力との対立は妙満寺二七世常楽院日経の出現によって決定的となる。
日経は什門の強力な基盤である上総七里法華の出身で、京都妙覚寺不受不施開祖日奥の折伏的態度に共鳴し、諸宗を折伏し特に浄土宗へは対決の姿勢を示した。
慶長一二年(一六〇七)九月浄土宗と法論に及んだが、浄土宗側には徳川氏の外護があり、日経は敗訴している。
慶長一四年二月二〇日には京都にて弟子ともに刵劓刑に処せられ弾圧されている。
以後日経の信仰者たちは内証題目講として地下に潜伏するようになることが明らかとなっている。
江戸時代には幾度か摘発をうけている。
このように日経の反権力的な態度は妙満寺派内に大きな動揺を与えたことは当然であった。
徳川政権の確立に従って日経個人の問題だけには止まらず什門教団の存在すら危ぶまれる問題であった。
妙満寺内では日経を除歴し、強義折伏の伝統を改めて摂受的になって行くことになる。
この動きは外様大名の池田輝政の什門への帰依による脇入れが大きく影響したと思われる。
池田輝政は天正一九年(一五九一)の三河時代以来什門の日円に帰依しており、慶長六年幡磨転封、さらに印幡、備前への転封に従って什門への帰依を続けそれぞれの地に妙立寺、本行寺、円乗寺、法泉寺等の寺を建立し庇護を与えて、什門の発展に大きく貢献している。
当然のことながら徳川政権を支える大名として存在する池田氏は反権力的立場をとる日経の態度を拒否し否定し、自己が帰依する什門には池田氏一門の繁栄を祈願させ体制安泰の方針をとらせたといえる。
また池田氏の什門の絶対的ともいえる帰依により什門は体制擁護下の教団として独自の展開をとげることができ、什門派として独立し、身延に代表される一致派や富士や真門、陣門の連合組織である勝劣派にも属しない教団として公認されることとなった。
妙満寺を頂点とした什門教団所属寺院は二〇〇余ヵ寺を数えている。
明治維新以降には明治九年(一八七六)二月の一致派、勝劣派に分立し管長を選出するに当り日蓮宗妙満寺派として別立し、同三一年には顕本法華宗と改名し、宗団法により末寺は日蓮宗、法華宗の傘下に入ったが戦後に復元して、昭和二三年(一九四八)二月一二日に法人を設立したが法人法による法人とはなっていないでいる。
《『日蓮教団全史』上、鈴木常耀「神天上勘文考」『大崎学報』一〇七号、長谷川義一『什門教学伝統誌』、辻善之助『日本仏教史之研究』、山口智光「内証題目講の研究」『日蓮宗不受不施派の研究』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『禁制不受不施派の研究』、相葉伸『不受不施派殉教の歴史』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、『日蓮辞典』「日什門流」の項、小松邦彰・花野充道『日蓮教団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)》
(坂本勝成)