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上総七里法華

かずさしちりぼっけ #265

上総七里法華

かずさしちりぼっけ

文明年(一四六九-八七)関東弘通に携わっていた京妙満寺一六世心了日泰が、酒井定隆の外護により、長享二年(一四八八)五月の改宗令を基にして、千葉県の長生・山武の両郡を中心に七里四方の、諸宗寺院をことごとく法華宗寺院に改宗させた。 その地を「上総七里法華」という。
江戸期には、『土気古城再興伝来記』他、数種の日泰伝記の書伝と共に、関東上総地区における寺院縁起の盛行に伴い、一般農民のにも周知され、現在に至っている。
千葉県内における日什門流出現の初めは、開祖日什が天授六年(一三八〇)天台宗より下総真間弘法寺に来て日蓮宗に改宗したのに始まり、元中三年(一三八六)船目本立寺を創し、その門下(日仁・日運)が歴世して伝道し、応永元年(一三九四)日義は小櫃正覚寺を創し、応永三三年日運は門下日を助けて木更津成就寺を創した。
また日仁一門の船目本立寺五世詮院日は、文明七年(一四七五)打越立源寺を創した。特に上総地区で日仁の門下より出た寂光院日遵は文明三年萱場本大寺を、同一一年東金西福寺日近を教化し、同五年には木更津出身の東金本漸寺守玄院日親に祈祷経を授与するなど活躍した。
日遵門下の日泰・日近・日親の三師は、日運門下の日通・日舜・日と共に日什門流上期の先師として著名である。
さて上総七里法華の名称の起りは、不退院賢亮の記と書伝される。
延徳三年(一四九一)の粟生野円立寺『縁記譜』に「爰酒井定隆公築土気古城、其折浜野本行寺日泰聖人在御登城、而後御領内海内七里中開基妙法蓮華経宗云々」とあるのが最初である。
この延徳三年は日泰の存生中であり、同年代の日泰祈祷経も浜野本行寺に現存しており、これもまた注目すべきものである。
また円立寺開基日立の永正一七年(一五二〇)正月の『規式一札』九条目の最初に「一従先年酒井越中守様、御領内不残法花宗ニ相定、拙僧開山致候ニ付」とあって、その中で日泰は「法華弘通中興開基」として古くから日什門流において尊信されていたことが記され、更に、江戸期、上総寺院の大小の寺院に建立された「日蓮・日什・日泰」三聖師の大小の石碑のうち特に日泰の供養碑には「七里法華能引導師(土気善勝寺、天保一一年)」とか「七里法華開基(萱場本大寺、安政五年)」とか「七里法華開闢(浜野本行寺門石、寛政三年)」と銘記されていることが知られる。
明治期の什門寺院僧の教科書として名高い『本宗綱要』には「曽テ酒井定隆ト共ニ東京湾ヲ航ス、颶風大ニ起リ船将ニ覆ラントス、師舷頭ニ立チ修法セシカハ風浪忽チ静穏ニ帰ス、定隆大ニ感激シ信者トナル(この伝説は享保年代には成立していた)時ニ師上総諸宗ノ寺院ニ向テ、諸宗無得道ノ難条ヲ贈リ、或ハ自ラ出テ之ヲ詰難ス、而ルニ法鋒ニ当ル者ナシ、或ハ帰伏シ或ハ遁レ去ル、之ニ依テ諸宗地ヲ掃テ本宗ニ帰ス。 之ヲ七里法華ト云フ、永ク顕本法華ノ霊地トナル」とあって、いわゆる長享二年(一四八八)の改宗令は故有って記されていないが、その文字の異なりは別として、長享の改宗令をもって宗門に認知せしめる要因となったものは、明治六年(一八七三)の書上で、寺院の権威付けに重要な位置をもつに至った。
ち「明治維新」の動乱期を経て、浜野本行寺、土気本寿寺等は、宗風高揚のため「泰師講・万人講」等の講中を再組織するに当り、当時の住職が『泰師伝』を版行するに至って、特に土気本寿寺檀越吹野所伝の「改宗令」が宗門に重要視された(その内容は山根日東編『妙満寺概観』に周知である)。
近年「七里法華」の四字の文句に固定して、その初見年代を選定する説が出ているが、宗門的見地よりすれば「法華弘通中興開基」と「七里法華開基」とは同義に解釈されており、寂光寺日鑑の『什門回向文略注』には「日泰上人は上総国七里法華弘通の大導師也」(文久三年成立)とあることから明白である。
本宗綱要』によると「文明年中ニ日泰上人アリ大ニ宗風ヲ揚ク、尤モ力ヲ関東ニ尽シ上総ノ如キハ全州概ネ師ノ教化ニ伏ス、寺院ヲ開創スルコト三百有余」とあるのは、日泰を尊信する余り、上総寺院が短期の間に日泰に帰したとするものであり、明治期の本末帳や各寺の過去帳によれば、「文明、長享、延徳、明応、文亀、永正、大永、享録、文、永禄」の年代に亘って改宗創立されていることが判明している。
最近、千葉県下の中世史研究の一端として、酒井氏を中心とした『上総七里法華』の成果が『房総の郷土史』三号に載録されているので参照されたい。
本多日生・小林日至編『本宗綱要』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、宮崎英修「上総七里法華日泰上人」『日蓮宗の人びと』、長谷川義一『什門教学伝統誌』、『豊岡村誌』、『房総叢書』、『日蓮辞典』「七里法華」の項》

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