酒井定隆
酒井定隆
さかいさだたか
心了院日泰(一四三二-一五〇六)に帰依した、上総の地の外護者。
定隆は領国の中野・土気を中心に北は成東、南は茂原、東は九十九里浜、西は生実に及ぶ約七里四方にまたがった領内に他宗の寺院建立をゆるさず、悉く日蓮宗をもってしたので世に上総の七里法華という。
日泰は関東への伝道を志し、長禄三年(一四五九)二八歳のとき、武蔵に下り品川本光寺で、文明元年(一四六九)には下総に至り、浜野郷の廃寺を興して一宇を構え、本行寺と名づけた。
なお酒井定隆との出会いは、文明のころ日泰が品川で布教、浜野に帰る船の中で、志をたてて家名をあげんとする定隆と乗合わせたことによる。
船は大暴風雨に遭遇し難破しようとした。
このとき日泰が竜神に祈って危難をまぬがれ船は無事に浜野に着いた。
そこで定隆は深く日泰に帰し志を得た暁は領内ことごとく妙経に帰依することを誓ったという。
そして定隆は房州里見氏に仕えて漸次名声をあげ、長享二年(一四八八)には遂に土気城に入った。
ここにおいて浜野より日泰を招いて教筵をはり、城中に一宇を建立して日泰を請じた。
これが本寿寺である。
この年、五月一八日には奉行栗木原伝助、宮嶋伝七をもって領内の道俗・寺院をして悉く日蓮宗に改むべきことを令したと伝える。