妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

学頭

がくとう #1662

学頭

がくとう

学道の頭領のことであり、大学の頭より転じた語といわれ、古より諸大寺・諸大神社におかれた役名である。
「延暦寺学頭一」「園城寺学頭一」、「鶴岡社学頭職」等の名称があるが、各宗・各派により左右学頭等との個々の名称、役職、地位が異なる場合がある。
日蓮団は、日蓮聖人滅後、六中老僧等の弟子檀那により各地に教線が拡張伝道されたが、それにつれ、教団の本拠たる寺院と、それから派生、分立した寺院ができ、その弘通伝道所も多く作られ、その結果親寺を本寺(本山)、弘通所末寺と称するようになった。
本寺住職(主職)は別当・貫首・院主・坊主といわれ、本寺には大衆を教育する機関として、学室が設けられ、この学室は「談所」ともいわれた。
早く身延では日向を学頭として門下の育に当たり、日興は住持として諸般の統率に任じたようである。
また主は「学頭」と称せられ、古より富士の重須談所、千葉の平賀談所、池上談所等が有名である。
更に南北朝・室町期に入ると、上に述べた六中老僧等諸所の学室のほかに新興の各門流が展開しそれと共に、講経、御書の研鑽に励む者も多く、各諸本寺に「学頭」や「経」の師をおくことが一般化されるに至った。
六老日興は、本門寺、大石寺を中心にして教線をはったが、北山本門寺に重須談所を開いて門下を訓育している。
文保二年(一三一八)一一月、三位日順の表白(『宗全』第二巻三一七頁)に記されているのが初見のようで、暦応五年(一三四一)には自ら本門学頭と称している。
この重須談所の最初の学頭は、身延日向のもとを去り、富士日興に帰した日澄で、六老日頂の俗弟である。
日澄は延慶三年(一三一〇)四九歳で遷化し、に日順は一七歳にして嘉暦三年(一三二八)三五歳に就役に至るまで学頭は定まっていなかったようである。
その後同門の分立と共に談所は消滅した。

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