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重須談所

おもすだんしょ #5018

重須談所

おもすだんしょ

日興は重須本門寺を中心として教線を張ったが、ここに談所を開いて門下を育した。
のちに重須談所と呼ばれるようになったが、この名の見えるのは、二代学頭三位日順の「表白」に「文保二年十一月二十四日重須の談所に於て一座論談を致す講師表白」と記されているのが初めのようである。
この談所における講学の内容は、「表白」に「八軸の妙典を講じ」とあり、法華経以外では『日宗年表』に『本尊抄』、『開目抄』の講義をしたことが記されていることから、御遺文じられていたと思われる。
この重須談所の初代学頭といわれる寂仙房日澄は、伊予阿闍梨日頂の俗弟で、初め日向について学んだが、のち富士の日興に帰した。
日澄は「日順阿闍梨血脈」によれば「類聚相承の大徳なり。 慧眼明了にして普く五千余巻を知見し、広学多聞にして十宗の法水を斟酌」する大徳であったから、日興は学の役を日澄に委ねて門下の育に当らせたが、延慶三年(一三一〇)四九歳をもって遷化した。
弟子日順はに一七歳、これより比叡山に学び「幸に三講え結集に列る、已来朝夕法華の学行を勤修」(『心底抄』)するなど研鑽を積み、富士に帰った。
嘉暦三年(一三二八)三五歳をもって学の役に補せられ、暦応五年(一三四二)にも「表白文」の中に自ら本門学頭を名のっている。
日順の就役までは、日興始め他の人々が学に当ったものであろう。
日順はのち、両眼共に盲いながらなお学頭として教育に任じ、晩年は甲州下山大沢草庵に隠棲した。
日興寂後、富士門は弟子達が互いに錯綜して分散対立する状況であったが、その中にあっても、日順はなお学頭として名を止めていた。
しかし重須談所は次第にその機能を失い、重須本門寺所属の一学室とならざるを得なくなった。
《『宗全』第二巻、『日蓮団全史』上、堀日亨『富士日興上人詳伝』、日興門流上代事典』「重須談所」の項

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