妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

中山門流

なかやまもんりゅう #319

中山門流

なかやまもんりゅう

中山法華経寺を中心とする門流を中山門流と称する。
中山法華経寺は、もともと若宮法華寺に渕源を発し、中山に本妙寺が建立されるに及んで、法華・本妙両寺兼帯となった。
この両寺が合体して法華経寺と称するに至ったのは、ずっと後世のことである。
従って中山門流の濫觴期にあっては、これを「若宮門徒」と称したので、当時の事情については「若宮門徒」の項を参照されたい。
中山門流の大略のワク組が出来上ったのは、一四世紀にあたる第三世貫首日祐の代である。
その広がりは、おおよそ千葉胤貞の勢力範囲で、地元の下総国を始め上総・安房(以上千葉県)・武蔵(東京都)・相模(神奈川県)・肥前(佐賀県)・京都の諸地方である。これらの地にはそれぞれ多くの末寺が建てられ、本寺から「総導師職」が派遣されて、信仰の指導にあたっていた。
中世にはこの門流から優れた人材が輩出し、行動的な伝道布教をもって大いに勢を振った。
例えば多くの末寺を建立した妙宣寺日英、“なべかむりの法難”で知られる本法寺日親、京都に頂妙寺を創建した日祝らがあり、顕本法華宗の開祖日什も中山門流で修学した僧である。しかしながら戦国時代になると本寺の教勢は衰えて、宝物の流出など深刻な局面にたち至った。このため上方から日珖が貫首として入寺したのを契機に、本法寺・頂妙寺・妙寺の上方三ヵ寺による貫首職の輪番制が行われるようになった。
江戸幕府の支配体制の下に組みこまれた中山門流は、寛永年間(一六二四-四四)には一三二ヵ寺の末寺を全に擁して栄えた。
特に祈祷修法の霊地として中山法華経寺が有名になると、この門流からは多くの祈祷僧が輩出したのである。
この門流のもう一つの特徴は庶民信仰を積極的に受け入れていることで、その行動性と相俟って、日蓮宗の中でも特異な格を持っているといえよう。
《『日蓮辞典』「中山門流」の項、「日常門流」『日蓮団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)》

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