千葉胤貞
千葉胤貞
ちばたねさだ
(一二八七-一三三六)
中山法華経寺の檀越として、当寺の基礎固めに貢献した人物。
第三世貫首日祐は、胤貞の義子である。
胤貞は下総国(千葉県)の守護千葉氏の家督を継ぐ立場にあったが、蒙古襲来の折に防衛のため九州に下ったのが契機となり、別に千葉胤貞流を興こした。
その所領は下総国千田庄(千葉県匝瑳市・多古町)、八幡庄(市川市)、肥前国小城(佐賀県小城町)である。これらの地は胤貞の力によって、中山法華経寺の勢力が広く行きわたることになる。
千葉胤貞が日蓮宗に帰依した時点については明らかではないが、中山法華経寺二世貫首日高の時であることは確実である。
特に日高が正和三年(一三一四)四月に入寂する折には、その譲状や置文に俗別当として署名している。
胤貞はすでにこの時点で、中山法華経寺の運営についての実権を握っていたのである。
日高が亡くなると、胤貞は若冠一七歳の日祐を第三世貫首として入山させた。これによって中山法華経寺は名実ともに千葉胤貞流一族の氏寺となった。
つまり胤貞は現世・後世を祈るために広大な寺領を中山法華経寺に寄進し、日祐を師匠としてその信仰上の指導に従った。
また伽藍の整備を進める日祐に積極的な援助を加え、自分の領内には中山法華経寺の末寺を数多く建立してその信仰を広めた。
千葉胤貞の日蓮宗信仰は、じつに徹底したものであった。
一族すべてを中山法華経寺の信仰でまとめ、四五町歩にものぼる寺領を寄進して「天下泰平」と一族の現世・後世を祈った。
また法華経守護の鬼子母神と妙見神の信仰を持ち、現世利益の祈祷に期待を寄せている。
千葉胤貞の生きた一四世紀初頭の社会の状況は南北朝の内乱という厳しいものであった。
この中で胤貞は日蓮宗信仰に従って生き、一族の繁栄と自らの成仏を祈念しながら、建武三年一月一九日四九歳の生涯を終えた。