妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

俗別当

ぞくべっとう #620

俗別当

ぞくべっとう

寺院の運営面における責任者で、学面における貫首と並び称される立場にある俗人のこと。
特に中山法華経寺とその門流において有名である。
中山法華経寺初代の日常は、永仁七年(一二九九)三月四日に『置文』を制定し後を帥公日高にすことを決定した。
その中で「帥殿のことは申すに及ばず、及河七郎俗別当の如く、取沙汰有るべき也」と定めている。及河七郎という俗名を称する俗別当が、貫首日高に次いで団の運営に重要な発言権を持っていることが窺われる。
しかも同文書の文言の中に「今より以後は、道俗を論ぜず、口論を好み僻を致す輩においては」とあることにより、教団の運営面を担当する多くの俗人が居たことがわる。このような俗人を統率して寺務を円滑に行うのも、俗別当の義務であった。
中山法華経寺二世の日高の時には、俗別当として千葉胤貞が現れる。
胤貞は下総の雄族としての出自から、寺院の運営には大きな力を持ち、寺領の寄進も積極的に行っている。
正和三年(一三一四)四月、日高の入滅が近い、日祐に対する譲状三通と置文一通を作製した。
このうち譲状には日高と胤貞が並んで署名し(但し一通は日高の署名不能)、『置文』(日高)には胤貞のみが加判している。
置文」の文言の中には「僧鶴林に及び、御判形能わざるの、胤貞加判し畢ぬ」とある。
これらの文書によって貫首が危急の場合には、俗別当がこれに代り得るだけの権限をもっていたことがわかる。
しかも日高が貫首職を譲る弟子の日祐は千葉胤貞の猶子であり、しかも当若冠一七歳であったから、貫首後継者の選定に際してもかなりの発言権を帯びていたのである。
日祐が第三世の貫首に就任すると、千葉胤貞は広大な寺領を寄進し、日祐はその援助によって寺観を整備し経済的基礎を固めた。
俗別当寺院における権限とその果した役割は、初期団において極めて大きいものといわなくてはならない。

← 事典トップ