千葉氏
千葉氏
ちばし
下総国(千葉県)の雄族で、千葉常胤(一一一八-一二〇一)は、鎌倉幕府草創期の有力御家人として有名。
源平合戦には見事な勲功をたて、下総国の守護職に補せられた。
また武蔵・上総・伊賀(三重県)、肥前(長崎)などに地頭職を与えられ、一族が全国的に広がっていく基をなした。
この後、千葉氏は南関東の複雑な政治情勢に脅えながら鎌倉・南北朝・室町時代を通じて下総国の守護職を世襲した。
このため房総地方の歴史において、千葉氏を除いてこれを語ることができない。
日蓮聖人が房総で布教活動を展開したのは、千葉頼胤(-一二七四)の時代である。
聖人の檀越として名高い富木常忍は、頼胤の被官として重きをなした人物で、守護の周囲に多くの信者を創出するなど、重要な役割を果した。
蒙古襲来の防戦態勢が急がれた文永八年(一二七一)九月、千葉頼胤は幕府の命を受けて九州に下向し、所領の肥前小城に赴き、博多で異国警護番役についた。
ところが武運つたなく文永一一年一〇月の蒙古との戦いに傷を負い、翌建治元年(一二七五)八月一三日に小城の地で没した。
先年、中山法華経寺に伝わる日蓮聖人の要文裏文書が発見され、頼胤の頃の有様がよくわかるようになった(中尾堯編『中山法華経寺史料』)。
これによると、当時の守護は政治的にも経済的にも深刻な情況にあったこと、浄土教の僧侶による活動が激しかったこと、国内に散在する武士たちの間に日蓮聖人の教えが受容され始めたことなどがわかる。
また、この文書群の中に「ぬきなの御局」の手紙があり、千葉頼胤の周辺に日蓮聖人の父と伝える貫名の一族が現れることは興味深い。
とにかく下総国守護たる千葉介頼胤は、日蓮聖人の伝道活動と至近距離にあったことは間違いない。
ところで頼胤を失った千葉氏は、代りに二男の胤宗を肥前に送らなくてはならなかったが、まだ一〇歳にも満たない幼少の身なので、激しい戦いの場に臨むことは倒底できないことであった。
そこで長男の宗胤は弟の胤宗に千葉の本家を継がせ、自ら肥前国小城に赴いて蒙古襲来の警護に当たることとなった。
かくて千葉氏は下総の雄族として大隅守護職を帯び、異国警固に事跡を顕し、代官を通じて本拠小城を中心に権益を拡大していった。
千葉氏の本家を継ぐ身でありながら、異国警固のため、九州以外の地における千葉介の事務を胤宗に託せざるを得ず、ここに総州の千葉氏と肥前の千葉氏とに分裂するきっかけを作ったのである。
しかし宗胤が歿した翌年の永仁三年(一二九五)に、大隅の守護として新たに北条時直が現れると、千葉氏は九州管内で再び守護職を帯びることはなかった。
宗胤の子が胤貞で中山法華経寺を中心とする日蓮宗の外護者として、つとに有名である。
胤貞は下総国八幡庄(千葉県市川市)・千田庄(千葉県匝瑳市)と、肥前国小城などに散在する自分の所領を維持すべく、懸命の努力を重ねた。
当時はまさに南北朝の争乱まっただ中であったから、千葉氏の本家を継いだ胤宗の子の千葉介貞胤と、今や庶流となった胤貞は互いに対立しあい争った。
このような時、胤貞は八幡庄の中山にある本妙寺(後の法華経寺)の日高に帰依し、その俗別当となる。
更に日高が没すると、養子の日祐を後継者として第三代貫首にすえ、八幡庄を始めとする所領の中から広大な寺領を寄進した。しかも胤貞の政治的地位を発揮して、法華寺・本妙寺(後に合体して法華経寺となる)の寺観を整えると共に、その所領の中に多くの末寺を開かせた。後世にみる中山門流は、この時代の寺々が中核をなしているといっても過言ではない。
日祐は義父胤貞の要請によく応えて、法華経寺の基礎を見事に確立したのである。
胤貞の後を継いだのは胤継で、父に劣らず日蓮宗の信仰に熱心であった。
貫首の日祐に対して田畑を寄進したのを始め、多方面にわたってその活躍を支えた。
胤継は一族の者たちを引き連れ、日祐に随って二度ほど自ら身延山に登山し、日蓮聖人の墓所に参詣している。
また法華経寺の諸末寺が千葉氏の領内で確立し、仏像や堂舎が整えられるようになるのもこの頃のことである。
胤継は「大島殿」と呼ばれていたようで、恐らく多古町の島を根拠としていたとみられる。ここには日蓮宗の僧侶が常住していたようで、日忍は大島城中で聖教などを書写している。
ところで下総国と肥前国とははるかに懸隔していることから、やがて肥前千葉氏は分立することになる。
肥前千葉氏は光勝寺を保護しながらも、天台宗や禅宗の信仰も容認し、神祇信仰にも深く意を注いでいたので、千葉胤貞の意図したような徹底的な日蓮宗信仰ではなかった。
後に胤鎮は日親からその信仰態度を厳しく追及され、やがて子の元胤と共に信者となった。
肥前千葉氏はこの後も戦国争乱の波にもまれながら、佐賀平野の西北端に位する小城の地(現在の小城町・三日月町)を守っていた。
しかしながら遂に龍造寺氏によって滅ぼされると、佐賀平野の戦国争いも終りを告げる。
下総国の千葉氏は胤健の後は胤氏・義胤・胤清・胤満と続き、日蓮宗の信仰をしっかりと守っていた。
特に千田庄一円には千葉氏一族が建立した題目の供養碑が数多く見え、信仰の深さを思わせる。
法華経寺の僧侶たちも、千葉氏一族の所縁をたどりながら、布教活動を展開させていく。
日英・日什・日親らはその代表的な僧侶である。
ところが下総国はやがて戦国争乱の巷となり、千葉氏の勢力も急激に衰え、同族内での争いも絶えなかった。
更に里見氏と後北条氏の抗争に巻き込まれ、分裂を繰返しながら遂に滅亡した。
この頃、永年にわたって法華経寺の貫首職を勤めた日俒が、徳川家康によって千田庄中村へ追放され、次いで日典が周防の萩へ移されるに及んで、法華経寺の貫首は上方三ヵ寺の輪番となり、下総国からこれに当ることはできなくなった。
千葉氏の滅亡も、まさにこれと時を同じくしていたのである。
いま、中山法華経寺の歴史を語る時、このような運命を辿った千葉胤貞流一族なくしてはこれをなし得ないのである。
《川添昭二『中世・近世博多史論』海鳥社、千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史』資料編中世三県内文書二(千葉県『県史シリーズ』一六)、『国史大辞典』九巻「千葉氏」の項》
(中尾堯)