富木常忍
富木常忍
ときじょうにん
(一二一六-九九)日蓮聖人の最も初期からの檀越、のち僧となり、中山門流の開祖。
五郎胤継(たねつぐ)と称すと伝えられていたが、近年、中尾文堯は、中山法華経寺所蔵聖人自筆の「双紙要文」「天台肝要文」「破禪宗」「秘書」など要文集の紙背文書の書状を詳細に検討して、その宛名に「富木五郎入道」とあることを指摘した。これによって常忍が五郎と称したことは確認されたのである。
なお、ただ一通(ただし首欠)だけだが「ときの五郎四郎殿」に宛てた書状がある。他の紙背文書に見える「富木五郎」と同一人とすれば、常忍は富木五郎四郎と呼ばれたと考えられる。古来より伝えられる胤継の名については、中尾はこれをとらず、常忍=つねのぶと名乗ったとし、入道して常忍=じょうにんと称したとしている。
しかし、胤継と称したかどうかは不明としても、常忍は俗称ではなく、父と思われる富城中太入道が法名蓮忍と称したことから見て、法名であろう。
さらに中尾は常忍の入道した時期について『日蓮教団全史』上が「文永六年(一二六九)五月九日、『問註得意抄』は明らかに聖人自筆で“土木入道”とあるから、この頃か、それより少し以前ぐらい」としたのに対して、紙背文書建長三年(一二五一)二月二〇日付長専奉書に「富木五郎殿」とあり、同文書中の二通の長専奉書を繋がるものと考え、その端裏書を合わせ考えて、これを建長五年一二月二七日のものとし、同書状に「ときの入道殿」とあることから、入道したのは建長三年二月二〇日から同五年一二月二七日までであろうとする。そして中尾は、このことにより、富木五郎は聖人の檀越になる以前、念仏信仰(それも然阿良忠系の)を持っていたことを指摘した。
なお、遺文には「とき・土木・富木・富城」のように表記しているが、紙背文書の宛名でも「とき・富木・富城」の表記が見られ、日高の譲状には「富木」と表記している。
右の紙背文書中の年月日未詳の「沙弥常忍陳状」によれば、富木氏はもと因幡国法美郡富城郷にいたらしく、常忍の父と思われる富城中太入道法名蓮忍のころ関東に移住したと思われ、常忍は下総国八幡(やはた)庄若宮戸村(現千葉県市川市中山)に住した。
聖人と常忍の師檀関係を示す最も早い書状は「富木殿御返事」(定一五頁)で、右の紙背文書の一つ、無年次一二月九日付で、日蓮との自署はあるが、花押(かおう)はない。この書状を聖人の真蹟とすることについては、山中喜八に検討を要すとの発言がある。
これまで、この書状は稲田海素により建長五年のものとされてきた。
しかし、この年代推定は実は後世の『日蓮聖人註画讃』の、建長五年のいわゆる立教開宗の年に聖人が鎌倉に出たという叙述に基づき、この年の一二月九日の書状としたのである。
建長五年に鎌倉に出たということの確証はなく、むしろ同六年九月には、なお清澄寺に聖人が在住したと考えられるので、この書状を稲田海素が推定した建長五年とすることはできない。
それにしても、常忍がごく初期からの檀越であろうことは想像に難くない。
聖人と常忍の師檀関係がいつから、どのようにして始まったかは不明であるが、出会いの場所が鎌倉であったことは間違いないだろう。
それに関連するのが常忍の社会的階層である。これについては、御家人、あるいは下総の守護千葉介(ちばのすけ)胤の有力な被官(家臣)とする二つの見方がある。いずれにせよ、下総若宮から鎌倉に出る機会は多かったと考えられるので、両者出会いの場所は鎌倉であったと推察できる。
建長年間のものとされる書状を除けば、富木氏宛ての書状(妻の尼御前宛ても含む)は、文永六年(一二六九)以降弘安四年(一二八一)の一三年間にわたり、定本正篇収録のもの三八篇を数え、うち三二篇に真蹟があり、そのうち完全に真蹟が現存するもの二七篇、断片の存在するもの五篇で、檀越中最も多く聖人の書状を受けるている。書状のなかには漢字平仮名交りのものもあるが、一八篇は漢文体の書状である。こうした漢文体の書状を送られている檀越は、僅かに常忍・曽谷入道・大田入道・大学三郎・波木井三郎・池上宗仲・妙一尼ら七名にすぎない。常忍は檀越のなかで際立った識字能力を有していたのみならず、教学上の素養も深く、法門について聖人に質し、その答えを得ている。
とりわけ注目されるのは、聖人の教学・信仰の根幹的著作で聖人当身の大事である『観心本尊抄』が、佐渡から常忍のもとへ届けられ、その閲読と保管が求められていることである。聖人の常忍重視を語るものである。
常忍は檀越として聖人の外護(げご)も並々ではなかった。妻の尼御前と共に銭や米その他を身延に届けさせている。
それだけではなく、聖人の佐渡配流のときには他の檀越たちの意向もあって、聖人を見届けさせるべく、入道某(なにがし)を聖人に随行させている。ただし、聖人はこの入道を越後寺泊から帰している。
常忍は佐渡流謫(るたく)中にも紙・墨・筆などを届けさせている。
『開目抄』『観心本尊抄』などは、常忍の提供するところの紙・墨・筆によって書かれたのであろうか。
あるいは聖人が鎌倉を出て身延に到着した直後に、当時の「結句は一人になて日本国に流浪すべきみ(身)にて候」(定八〇九頁)との心境を打ち明けた相手がこの常忍であって、身延まで供して来て帰させられた僧たちに、この心境を伝えることを依頼されるほど、聖人の常忍に対する信頼は深かったのである。こうした聖人に対する常忍の帰依もなみなみではなかった。
九〇歳に及んだ母を亡くすと、その遺骨を聖人在住の身延に埋納すべく、身延に参って聖人から母子同時成仏を説かれ、仏事を修して帰ったことは、『忘持経事』(定一一五〇頁)に述べる通りである。
さらに後妻と思われる尼御前の子を出家させているのも、聖人の教えを深く信奉してのことであったであろう。その子がほかならぬ伊予房日頂である。
聖人の常忍宛ての書状は、弘安四年一〇月の末に書かれたとされる『越州嫡男並妻尼事』(定一八八九頁)と呼ばれるもの(断篇)が最後で、常忍の存在が確認できるのは、翌五年一〇月の日興・日位の記した『日蓮聖人御葬送日記』においてである。このとき、常忍は香を捧じて葬送の列に加わっている。
聖人没後、常忍は僧となって日常と名乗り、持仏堂である法華堂を中心にして法華寺を開いた。
日常の名はすでに弘安四年九月に図顕された曼荼羅の授与書に「俗日常」と見えるが、それではないかと考えられる。
この曼荼羅は現在京都本圀寺に所蔵されており、その伝来については未詳、かつ疑問もあるが、恐らくこのとき、常忍は日常の日号を授与されたであろう。
僧となった時期は定かでない。弘安六年四月五日に注記をはじめたという『観心本尊抄見聞』に「常忍坊注之」とあるところから、このときまでに僧になったとも考えられるが、同書が常忍の真撰であるかについては疑義があるので、この『見聞』の識語をもって僧であったことの証しにはできない。
下総の教線は本弟子六人の一人として指定された日頂が掌握するところであったが、日常との間に疎隔が生じた。
中尾は、在地への止住定着を志向する日常と教線の拡張を意図した日頂との間に乖離が生じ、日常は日頂を追放し、持仏堂を法華堂=法華寺として、その貫首になったという。
このように日頂との不和と追放が僧となった契機であると考えられ、その時期は正応五年―永仁二年(一二九二-九四)のころであったと考えられる。これ以後、僧として信仰を勧める活躍をしたことは、真間弘法寺現蔵の日常書状によっても明らかである。
これは無年次一二月三日付の書状だが、異筆で「永仁五」年(一二九七)と書き入れがある。
次いで同七年三月三日、日常は置文で「一、聖人の御書並に六十巻以下の聖教等を寺中から出(いだ)すべからざるの事、一、聖教殿居(とのい)の事、一、当(法華)寺並びに本尊聖教は帥殿(そつどの)(日高)に付し奉り、弘法寺は兵部阿闍梨(日揚)に申し付け候。日常他界の後は、この両寺において、日常存生の如く思い成し」と記し、講会以下の勤め、先々の如く緩怠なく行わるべき事などを定め、越えて同月六日、法華寺所蔵の本尊聖教の目録を作製した。
右の置文にいう御書・聖教の寺外不出、殿居=宿直による恪護のためであり、さらには後世にこれらを残そうとしてのことであった。
「常修院本尊聖教事」がそれで、「常師目録」と通称される。
目録に記されたそのほとんどは、日常やその妻に与えられた真蹟であるが、『立正安国論』や『開目抄』、その他写本と思われるものもある。こうした日常の真蹟の収集と恪護は、同寺三世の日祐の継ぐところであり、以来、諸寺のなかでも最も多くの真蹟を伝承してきて、近代における遺文研究の貴重な礎石になっている。
伝えるところによれば、日常は目録作製の半月後の三月二〇日、八四歳で示寂したという。
《中尾堯『中山法華経寺史料』、同『日蓮宗の成立と展開』、高木豊「清澄の日蓮」『金沢文庫研究』一七六号、同『日蓮とその門弟』》
(高木豊)
【補記】本項が執筆された後における研究や発見等によって改訂すべき数項を指摘する。
①『天台肝要文集』紙背文書『富木殿御返事』は、つとに山中喜八によって日蓮聖人自筆文書であることが否定されてきたが、まさしく非自筆で代筆状であることが実証された。ただ、系年についてはなお確説が立てられていない。付言するが『天台肝要文集』第一紙の表初三行「をんいのりのためなり。恐々謹言。乃時」(断簡二五五)は富木氏への伝言ではなかろうか。
②富木常忍夫妻宛て状が数えあげられているが、富木賜書として扱われてきた二書、それはつとにやかましく偽撰視されてきた問題書であるがその二書(『観心本尊特意鈔』『四菩薩造立鈔』)は明白に除外されるべきと判ずべきである。よってあげられた賜書数から二篇が減ぜられる。この一方、増加すべき書状がいくつかある。
③『定本』編集の際、対告者名不記入のゆえや真蹟末紙欠失のために対告者不明書が相当数存する。中にあって『白米和布御書(二〇四)』『法衣書(三九八)』の両状(カッコ内数字は定本の遺文番号、以下同じ)は対告者は富木氏である。これによって二篇を増す。
④さらに『定本』の誤判断によって富木賜書であるにもかかわらず対告者を、従って書名も誤ったものがある。『金吾殿御返事(七三)』『上野殿母尼御前御書(七四)』の両状がそれである。前者は「日常目録」に脱漏し「日祐目録」に追補された『大師講事』で、最古の写本である日澄本(信伝による転写本)の名称は「法華捨身念願抄」。現行する誤題は刊本『録外』に、重複して収録されたうちの一名称からである。後者はつとに『日蓮大聖人御真蹟対照録』が厳重に誤認を指摘し修正を促した文献である。即ち改正書名『止観第五之事御消息』で、「日常目録」に「母尼公信法華経之條悦思食由事」と標挙する富木状である。
⑤常忍宛て最後の書状として挙げられた弘安四年一〇月の『越州嫡男並妻尼事』は文永一〇年一一月三日状『土木殿御返事』と合して一通となるものであることが実証された。よって一通が減ずることになる。
⑥真蹟折紙消息一紙の新出によって一通が増した。即ち新出遺文は富木賜書であろうと考えてのことである。『白木御消息』で前記①と同じで『天台肝要文集』紙背文書で相剥されたものである。
⑦『阿仏房御返事』(二九二)が実は富木賜書であったこと(つまり旧蔵中山法華経寺でいつしか流出したもの)。同じく『日厳尼御前御返事』(三九〇)は富木尼賜書であったろうこと。このことが新たな研究成果として提示された。依るべき見解である。
⑧『富城入道殿御返事』(四一三)、「日常目録」の「承久調伏事」については、とかくの評があったが明白に病床の聖人が門下に口述しての代筆書状であり、聖人は署判を据えたものである(聖人自筆は花押のみとの見方もある)。この状にさらに付した自筆の追伸文が単独書の扱いをうけてきた『老病御書』である。
⑨おびただしく存する「断簡」遺文中、当然ながら富木賜書たるべきものが含まれていよう。弁別はひどく困難であるが、たとえば断簡二〇四・二二四等はその可能性あるやに推測できるか。
⑩『定本』の増補版発行に伴って新加された遺文中『御衣布給候御返事』(四三五)は前③と同致となるが、富木賜書と推考できる。
以上、順不同に列記した。
《『遺文辞典』歴史篇「富木常忍」の項、『日蓮辞典』「富木常忍」の項、『昭和新修』別巻「富木常忍」「富木女房尼」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と四大檀越」の項、『日本仏教人名辞典』「富木日常」の項》
(岡元錬成)